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斯波持有[しば もちあり] 斯波 持有(しば もちあり、応永20年(1413年) - 永享12年5月20日(1440年6月19日))は室町時代の武将。斯波義教(初め斯波義重)の三男。母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。通称、次郎。官途は従五位下左衛門佐。義教の子である斯波義淳の異母弟、斯波義郷の同母弟にあたるが、この兄弟の中では唯一、足利将軍家の通字である「義」の字を賜っておらず〔二人の兄のうち、義淳はそれぞれ4代将軍・足利義持から、(初め出家していたため持有より後に改名を行った)義郷は6代将軍・足利義教から、それぞれ「義」の字を偏諱として与えられている(『満済准后日記』)。〕、4代将軍・足利義持から下(二文字目)の「持」の字を偏諱として賜り、持輔(もちすけ、初名)、次いで持有と名乗った。 == 概要 == 持有は足利義持の偏諱を受けていることから、正長元年(1428年)正月に義持が病死する以前(持有が16歳になる前)に元服を果たしていたとみられている。同年3月に新しい将軍に決まった足利義教(義持の弟、後に6代将軍)に兄の義郷とともに拝謁した際に進んで義教に酌を取って酒を進めた為に大いに喜び(『建内記』)、6月25日に朝廷に働きかけて既に土御門嗣光が任じられている左衛門佐に持有を任命させてしまった(同)。また、和歌に優れており、『満済准后日記』には義教主催の歌会参加者として「斯波左衛門佐」の名前がしばしばみられる。 ところが、永享5年(1433年)11月に兄・義淳が重病となると、その子義豊は前年に没していたため、斯波氏家督後継者と目されるが、足利義教の介入があり「器用の仁に非ず」とされ、もう1人の兄・瑞鳳(還俗して義郷)が家督を継ぐこととなる。小泉義博は義教は実際には持有の器用を警戒して家督から外したのではないかと推測している。 永享9年(1437年)1月、兄・義郷の遺児千代徳丸の代理として大和国で反幕府活動をしていた越智維通(越智家栄の父)・箸尾次郎左衛門尉(=箸尾為憲?)の討伐軍大将となり越前兵を率いて出陣、翌年5月に激戦を演じている(大和永享の乱)。 永享12年(1440年)5月20日没。享年28。法名は勝保寺殿道昌久峯。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斯波持有」の詳細全文を読む
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