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斯波 義健(しば よしたけ)は、室町時代中期の守護大名。斯波氏(武衛家)の第9代当主。越前・尾張・遠江守護。斯波義郷の子。 永享8年(1436年)、父が落馬して死去したため、わずか2歳という幼さで家督を継ぐこととなった。初めは叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受けていた。 嘉吉元年(1441年)閏9月、駿河守護今川範忠と遠江の所領をめぐって争った。文安4年(1447年)、持種と甲斐常治の対立が発生して、持種に同情する家臣による常治の暗殺未遂事件が起き、8代将軍足利義成(後の義政)が仲裁に乗り出している。宝徳3年(1451年)、前尾張守護代織田郷広が将軍義成の乳母今参局を通して復職を図ったがこれを拒否した(後に郷広は自殺)。同年11月に元服し、従四位下治部大輔に叙任。 享徳元年(1452年)4月21日、義成より名字を賜い〔師郷記〕、6月22日に持種の子・斯波義敏を養子とする〔斯波家譜〕。しかし、9月1日に嗣子がないまま〔なお、『系図纂要』によれば、義健には自身の幼名と同じ千代徳丸という嫡男がいたが、義健の死から8年後である長禄4年(1460年)に没したとされる。裏付けになる史料はないものの、義健が義敏を養子を迎えたのは我が子の成長までの中継ぎであった可能性もある。だが、義健も千代徳丸も早死にしてしまったために斯波氏の嫡流は断絶してしまった(木下聡「斯波氏の動向と系譜」(所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2))。〕18歳の若さで死去したため、斯波義将以来の斯波氏の嫡流は断絶した〔『朝倉義景』吉川弘文館。5頁。〕。 義健の死後、武衛家は渋川氏出身の斯波義廉と斯波義敏による後継者争い(武衛騒動)が勃発することになるが、それには義健の若死にも一因しているのである。 == 偏諱を受けた人物 == *大宝寺健氏(出羽の大身) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斯波義健」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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