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新井 宏昌(あらい ひろまさ、本名同じ〔参考リンク(インターネット・アーカイブの保存キャッシュ): * 福岡ソフトバンクホークスコーチ時代、公式サイトに記載されたプロフィール (2008年9月16日付保存キャッシュ) * オリックス・バファローズ二軍監督時代、公式サイト内に記載されたプロフィール (2012年5月9日付保存キャッシュ) 〕、1952年4月26日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ・監督。日本プロ野球名球会会員。大阪府大阪市東成区出身。 在日コリアンの三世として生まれ、かつての本名は朴 鐘律〔「日本」から見たわが祖国の聖火 - 初出:文藝春秋1988年11月号 - 岩上安身の公式サイトより、同氏によるルポの転載。※「現役選手の場合」の章を参照(本人の発言とともに、国籍・本名についての記述あり)。〕〔『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(著:朴一、発行:講談社、発行日:2011年5月23日、書籍コード:ISBN 978-4062168854)P36より、在日コリアン三世として活躍したプロ野球選手の一人として「新井宏昌(本名、朴鐘律)」と記述。本名には「パクジヨンリユル」とのルビが振られている。〕〔『プロ野球人名事典2001』(著:森岡浩、発行:日外アソシエーツ、発売:紀伊国屋書店、発行時期:2001年5月、書籍コード:ISBN 4816916695)では、「本名・朴鐘律」との記載あり(読み仮名・国籍に関する記述は無し)。〕(パク・ジョンリュル / パクジヨンリユル〔)。高校野球・大学野球での登録名やプロ野球ドラフト会議指名時点の通名は新井 鐘律(あらい かねのり / あらい しょうりつ)〔ベースボール・マガジン社発行の『プロ野球ドラフト全史』シリーズに掲載された日本プロ野球歴代ドラフト指名選手リストに掲載された「新井 鐘律」の読み仮名を参照。2002年最新版(ISBN 978-4583612102)は「あらい しょうりつ」だが、2004年最新版(ISBN 978-4583613086)は「あらい かねのり」となっている。〕だった。のちに帰化・日本国籍取得者となり、本名と登録名が同一化された。 現役時代は南海ホークスや近鉄バファローズで活躍。巧みなバットコントロールによる状況に応じたシュアなバッティングが特徴で、2000本安打に加え300犠打をマークするなどチームプレーにおいて欠かせない存在感を示した。に40歳で現役を引退してからは、野球解説者・野球評論家としての活動をはさみながら、複数の球団でコーチや二軍監督を務めている。 長女は2011年度ミス日本でミス着物に選ばれた新井寿枝(画家・ファッションモデル)〔2011年度ミス日本ミス着物 新井寿枝 〕、三女は2012年度ミス日本グランプリの新井貴子(モデル、アルティメット選手)〔2012年度ミス日本グランプリ 新井貴子 〕である。 == 経歴 == === プロ入り前 === の夏、PL学園高校野球部主将として第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の好投もあり、PLにとって春夏通じて初の甲子園決勝に進出。しかし東海大相模に敗れ準優勝〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。大会第5号本塁打を放ち、一大会12安打の大会記録(当時)も樹立している。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商を降し優勝。他のチームメートに1年下の行澤久隆がいた。プロ野球ドラフト会議では近鉄バファローズから9位指名を受けたが、「スカウトマンが挨拶に来た記憶が全くない」という状況でプロ入りを見送り、スポーツ推薦で法政大学経営学部に進学した。 東京六大学リーグでは在学中2度の優勝を経験、2年生からレギュラーとなる。2年上に長崎慶一、伊達泰司がおり、彼等の卒業後には外野手の中心として活躍。最上級生となったに、1年生エース江川卓を擁し、秋季リーグで3年ぶりに優勝。同年の明治神宮野球大会では決勝で中大の田村政雄に完封を喫し準優勝にとどまる。ベストナイン(外野手)1回。1974年の第3回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新井宏昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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