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新垣 渚(あらかき なぎさ、1980年5月9日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(投手)。 == 経歴 == === プロ入り前 === 父方の祖父がアメリカ出身のため、本人はクォーターである。SPEEDのメンバー島袋寛子とは幼馴染。 幼稚園時代はキャプテン翼の影響でサッカーをしていたが、小学2年生から兄の影響で野球を始めた。当初は同世代より一回り長身である体格を見込まれて捕手を任されていたが、相次ぐ脚の怪我により投手へ転向。小学校時代の交通事故で右足に人工骨を埋める手術を受けて以降、右脚を3回、左脚を1回骨折した。特に那覇市立真和志中学校時代はほぼ3年間金属製のプレートを外せず、まともに走れなかった。そのため中学3年で野球生活を終え兄も在籍した興南高校入学し兄が主力選手だった同ボクシング部へ入部する段取りを進めていたが、自身の学年から金城真吉監督率いる同ボクシング部は沖縄尚学高校に移管した為にボクサー転向を断念、沖縄水産高校へ進学して野球を続けた。 の第28回明治神宮野球大会決勝戦で横浜高校に敗れ準優勝。は沖縄水産の主力投手として第70回選抜高等学校野球大会・第80回全国高等学校野球選手権大会出場を果たし松坂大輔と共に注目を集めた。全国大会史上初の151km/hを記録したが、どちらも初戦敗退。特に夏季大会は大島裕行(埼玉栄高校)に逆転本塁打を浴びた。直後の第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表選出され優勝に貢献。 同年のドラフト会議ではオリックス・ブルーウェーブと福岡ダイエーホークスが1位指名で競合。抽選の結果オリックスが交渉権を獲得したが、新垣は「ホークス以外なら進学」と決めており、新垣の実家を訪れたオリックス編成部長(スカウト)の三輪田勝利を門前払いするなど頑なに入団拒否の姿勢を見せ、交渉は難航した。その後、三輪田が自殺したことなどから大騒動となったが、新垣は入団拒否の姿勢を貫いて九州共立大学へ進学。新垣は大学時代「JNN報道特集」(TBSテレビ)のインタビューで、「自分が活躍することが、最初に評価してくれた三輪田さんへの恩返し」と語っている。ホークスは外れ1位で前出の日本代表でもチームメイトの吉本亮(九州学院高校)を獲得した。 九州共立大学では1年の秋の第30回明治神宮野球大会で優勝するなど、大学球界を代表する右腕として活躍(阪急・オリックスの1位指名を拒否した高校3年生が丸一年後に大学1年で明治神宮野球大会決勝先発投手となった例は1974年法大野球部江川卓と2人だけ)。2年と3年では日米大学野球選手権大会日本代表選出。のドラフト会議において、ホークスに自由獲得枠で入団した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新垣渚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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