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新宿末廣亭[しんじゅくすえひろてい] 新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)は、東京都新宿区新宿三丁目にある寄席である。都内に4軒存在する落語定席の一つで、落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗(「色物」という言葉は寄席に由来する)。末廣亭は、常用漢字である末広亭と表記されることも多く、末広亭の外に掲げられた提灯の中には末「広」亭と書かれたものもある(画像参照)。なお、かつて人形町に存在した寄席「人形町末廣」とは全くの別物である〔以下、「末廣亭」・「末廣」の呼称について記す。六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』22 - 31頁、147 - 153頁によれば、元々は新宿・人形町共「末廣亭」と称していた。安藤鶴夫 文 金子桂三 写真『寄席はるあき』28頁に掲載の人形町末廣の古い造作のテケツ(チケット売り場)の写真では「末廣亭」と明り取りのガラスに記してある。昭和26年(1951年)3月の株式会社新宿末廣亭設立時に「新宿末廣亭」の商号が登記され、もう一方の人形町末廣は金子桂三『志ん生を撮った!』173頁掲載の昭和35年(1960年)5月下席のプログラムで運営者自らが「人形町末廣番組」と記し、文化デジタルライブラリー 寄席に入る 2015年3月7日閲覧 掲載の昭和45年(1970年)1月中席と昭和41年(1966年)3月下席のビラにも「人形町末廣」としてある。その一方で「笑芸人」vol.13 9頁に掲載の昭和44年(1969年)初席の新宿末廣亭のビラには「新宿末廣亭」と記してあり、「笑芸人」vol.10 9頁に掲載の昭和45年(1970年)1月中席の新宿末廣亭のビラにも「新宿末廣亭」と記してある。上記の典拠によれば、どう遅くとも昭和30年代半ば以降には「新宿末廣亭」「人形町末廣」と明確に呼び分けていた事が見てとれる。〕。
== 歴史 == 明治30年(1897年)創業。元々は堀江亭という名前で営業していたものを明治43年(1910年)に名古屋の浪曲師の末広亭清風が買い取って末廣亭とした〔「笑芸人」vol.13 114頁。〕。当時は現在地よりもやや南寄りの区画に立地していた〔六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』147 - 153頁。〕。大正10年(1921年)3月の新宿大火で類焼し、復興事業による区画整理で現在地に移転した〔。そのころ経営の主体も末広亭清風の息子の秦弥之助に移る〔北村銀太郎・冨田均『聞書き・寄席末広亭』74頁。北村によれば移転は昭和初期。〕。昭和7年(1932年)に日本芸術協会の発足に伴い落語定席になる〔。昭和20年(1945年)第二次世界大戦により焼失したが再建を果たせず、戦前に下谷の竹町〔現・台東区台東4丁目。〕で寄席・六三亭を経営した経験があった北村銀太郎〔北村銀太郎・冨田均『聞書き・寄席末広亭 続』158 -159頁。本業は建築関連であったが、趣味が高じて寄席経営をしていた。六三亭は関東大震災で焼失した寄席・とんぼ軒の跡地に立地し、柳亭左楽(5代目)にすすめられて雷門助六(6代目)と共同経営していた。客入りの良い寄席だったが小学校用地として買収されて昭和3年(1928年)頃に開場から2年半程で閉場した。跡地は2015年現在、台東区立平成小学校(旧・竹町小学校)の敷地の一部になっている。〕が当時の落語界の重鎮であった柳亭左楽(5代目)のすすめで昭和21年(1946年)3月〔に再建し、初代席亭と呼ばれる。昭和26年(1951年)3月に株式会社新宿末廣亭設立〔。昭和30年(1955年)に二階席を増設した。当時の落語ブームに乗って昭和36年(1961年)に「お笑い演芸館」でテレビ中継進出も果たし、以降「日曜演芸会」、「末廣演芸会」と番組内容とタイトルを変更しつつ昭和56年(1981年)まで続く長寿シリーズになった。戦後から続いていた落語ブームが下火になって以降も若手二つ目の勉強の場として深夜寄席を継続開催しており、平成15年(2003年)9月には改装工事を実施〔して椅子席を150席から117席にしてスペースをゆったりさせた。トイレも近代的になり、快適に鑑賞できる環境が整備された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新宿末廣亭」の詳細全文を読む
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