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新山隆史 : ウィキペディア日本語版
新山彰忠[にいやま あきただ]

新山 彰忠(にいやま あきただ、1939年7月29日 - 2000年10月22日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。

== 来歴・人物 ==
兵庫工業では1957年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、県尼崎高に敗退。卒業後は法政大学法学部政治学科に進学。東京六大学リーグでは1960年春季、1961年秋季リーグ(ベストナインに選出)の二度の優勝に貢献。リーグ戦通算55試合21勝13敗、防御率1.59、146奪三振。同期に樋口正蔵室山皓之助がいる。大学を首席で卒業〔し、1962年南海ホークスへ入団。
主にリリーフとして一年目から活躍。1964年1965年に2年連続で2桁勝利を記録し、2度のリーグ優勝に貢献する。1964年には日本シリーズでも阪神から勝星をあげ、シリーズ優勝の一翼を担った。1965年には10連勝を記録している。その後も中堅選手として活躍するが、1969年限りで現役引退。球は遅いがスリークォーターから多彩な変化球を操り、特にカーブ、スライダーには定評があった。
引退後は南海投手コーチ(1970年 - 1975年, 1980年)、日本ハム1976年-1979年)、阪急一軍投手コーチ(1983年 - 1985年)〔阪急ブレーブス黄金の歴史  よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P129〕、阪神一軍投手(1986年 - 1987年)を歴任。日本ハムコーチ時代、宇田東植とマンツーマンで腰の回転を研究。これまでアンダースローでありながら腰の回り方がオーバースローに近いものだったが、アンダースローに合った腰の回転に矯正。宇田は1979年に自己最多の9勝を挙げ、投手ベストテンの7位にランクインしている。阪神コーチ時代、仲田幸司の指導をめぐって野村収と対立したことがある。その後、野球フランス代表の監督を務めていた吉田義男の要請で1989年にヘッドコーチを務め、高校野球程度のチームを指導。五輪の欧州予選4位まで押し上げた。1990年から大阪産業大学の職員となった(プロ野球のコーチから大学の職員になったケースとして、池田英俊がいる。)。
2000年10月22日上行結腸癌のため兵庫県西宮市の病院で死去。61歳没。
別名は「新山 隆史」(にいやま たかし)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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