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新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。 == 人物・来歴 == 山口県に旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれる。「出」という名は父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。 1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたる新村猛雄の養子となる。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。 静岡尋常中学、一高を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学博言学科卒業。在学中は上田萬年の指導を受けた。この頃からの友人として亀田次郎がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)に東京高等師範学校教授となり、1904年(明治37年)には東京帝国大学助教授を兼任した。 1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1919年(大正8年)には文学博士、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。 終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年(昭和30年)に初版が発刊された『広辞苑』の編纂・著者として知られる。子息の新村猛がこの共同作業に当たった。出は新仮名遣いに反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったときは一晩泣き明かしたという。そのため『広辞苑』の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いて溜飲を下げた。出はまた形容動詞を認めなかったため、『広辞苑』には形容動詞の概念がない。 その業績は『新村出全集』(全15巻、筑摩書房)にまとめられている。また南蛮交易研究や吉利支丹文学(キリシタン版関連)は、『吉利支丹文学集』(全2巻)と『南蛮更紗』が、平凡社東洋文庫で再刊されている。 新村はまたエスペランティストでもあった。1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表としてJEA代表の黒板勝美とともに参加している。 1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)の死去時に賜銀杯一組。出の業績を記念して、その死後15周年に当たる1982年(昭和57年)から、優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新村出」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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