|
新格闘プロレス(しんかくとうプロレス)は、日本のプロレス団体。 == 概要 == 平成維震軍を円満脱会した青柳政司が旗揚げした団体で、1994年3月11日、後楽園ホールにて旗揚げ戦を行う。 「勝負論の追求」を旗頭に、従来のプロレスとは違う「真剣勝負」を謳い文句に興行を行う。修斗との提携を結び、自団体のリングに中井祐樹を招聘し、また修斗のリングに所属選手が参戦した。公式戦としてエンセン井上や川口健次などの当時の修斗の選手達と対抗戦を行うが、所属選手全てが秒殺され、団体としてのイメージを大きく低下させてしまう。当時修斗所属であった朝日昇は後に、紙のプロレスでのインタビューで 「この試合で、自分がそれまで抱いていたプロレスに対する憧れが無くなってしまった」と発言している。 確かに「勝負論の追求」という言葉に間違いはないが、この事実は、急落していたとは云えまだかろうじて存在していた、「プロレス最強論」を崩壊させるきっかけとなったのも事実である。 その後エースの青柳が木村浩一郎に敗戦。負けた青柳が「もう一度リベンジして、今度負けたら引退する」と公言したものの、再戦を行わないまま、一方的に団体を離脱し、日本国内で開催されたWWF(現:WWE)のマニアツアーに参加。勝負論を追求するはずの青柳が、その対極にあるエンターテイメントであるWWFに参加した事で批判される。青柳自身は、当時WWFが格闘技団体を作るという話を聞き、それに参加する為にマニアツアーに自分を売り込んだとも言われている。 エースであるはずの青柳の離脱に加え、修斗との関係も無くなり、苦しかった経営がさらに悪化。残された選手達で細々と興行を行うが、力尽き自然消滅という形でその歴史を終える。 後にも先にも、修斗と提携した唯一のプロレス団体だが、それに対抗出来るだけの力を持った選手がいなかったのが悲劇とも言える。 1994年11月、三重県松阪市総合体育館にて、木村浩一郎対板倉宏をメインイベントとして、全試合を『有刺鉄線金網デスマッチ』で行う特別興行を開催。大会終了後に選手がリング上で「残ったメンバーで、新生・新格闘プロレスとして再出発する」と団体の再興をアピールし、同年12月には岩手県営体育館での興行も予定されていたが中止となった。よってこれが現時点でのラスト・マッチとなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新格闘プロレス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|