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新湊市(しんみなとし)は、富山県の富山湾沿岸にあった市。旧射水郡。2005年に市町村合併で射水市となった。テレビなどで紹介される時は「射水市新湊地区」とされることが多い。 新湊市は、富山県で初めて合併で消滅し、名称が残らなかった市である。富山県で初めて合併で消滅した市は、旧砺波市(2004年11月1日)であるが、こちらは合併後も「砺波市」という名称が残っている。合併を成功させるために、旧射水郡に名称を譲った形となった。 新湊地区の人々の地元意識は強烈であるが、「新湊」という名称は「新湊漁港」「新湊高校」「新湊小学校」「新湊中央文化会館」「新湊博物館」「道の駅カモンパーク新湊」「新湊かまぼこ」「新湊大橋 」「新湊中学校」などに残っているのみである。しかしながら、射水市の観光の中心は新湊地区の海王丸パーク(海王丸)、新湊大橋や新湊漁港、内川めぐり〔遊覧船も出ていて、新湊大橋を通り、東から新港大橋、二の丸橋、放生津橋、東(あずま)橋、山王橋、神楽橋、中新橋、中の橋、新西橋、湊橋、奈呉の浦大橋をめぐるルートなどがある。〕など新湊地区である。 内川周辺はその風情から「日本のベニス」と紹介されることも多くなった〔NHK富山放送局 「とやま 夢・航海 」(2002年7月31日)で当時の富山商船高等専門学校 教授金川欣二が「日本海は地中海」というテーマで「富山は薬業のメディチ家が創ったフィレンツェ、高岡は永遠の都ローマ、金沢はファッションの都ミラノと述べた後、北前船 で栄え、ラグーンのようになっている新湊はベニス」と解説したのが最初とされる。この「見立て 」については金川欣二『脳のほぐれる言語学』(ちくま新書 )に出てくる。〕。2015年には内川を中心にした吉永小百合が出るJR東日本のCF「大人の休日倶楽部」が放送された。 新湊漁港ではその透明な姿から“富山湾の宝石”と称される白えび(シラエビ 、地元では「ヒラタエビ」と呼ばれることが多かった)をはじめ、ベニズワイガニ、ホタルイカ、ブリ、バイガイ、ズワイガニなどが水揚げされる。漁場が非常に近く、一日に二度セリが行われる。午前中に取れた魚介類はその日の午後1時にセリにかけ、これを地元で「七時(などき)のセリ」という。「地産地消」として地元の名産を給食に使うことが増えているが、最初に有名になったのは2003年度から毎年実施している、新湊漁協による「ベニズワイガニ給食」で、一人にカニ一杯が出ることがマスコミに取り上げられた。近畿大水産研究所富山実験場と堀岡養殖漁協が連携して養殖したトラフグを使った「トラフグ給食」にまで広がっている。 街がもっとも盛り上がるのが10月1日に行われる放生津曳山祭である。「あ、いやさー」というかけ声とともに13基の曳山が町中を練り歩く。街角での方向転換は勇壮でスペクタクルになっている。夜には提灯山となって、放生津八幡宮を目指す。また海老江地区には放生津曳山祭の影響を受けた海老江曳山祭がある。 地元意識が最も盛り上がったのが 第62回全国高等学校野球選手権大会、新湊市で1校のみの高校、新湊高校による1980年の甲子園初出場である。沖縄の興南高校が相手で、駐車場がフルに使えることになり、121台のバスが出発【台数に関してはさまざまな数字があるが『新湊市史』による数字】し、自家用車も千台は行ったといわれる。4万人の市の人口のうち、約1万人が集結し、朝日新聞全国版に「新湊が甲子園に移動してきた」という記事が載るほど大きな応援団だった。その後も、「新湊旋風」の時など曳山祭の熱狂が甲子園に移ったようである。 新湊地域には「釣、網、魚、海老、鵜(う)、菓子、飴、酢、味噌、風呂、桶、地蔵、菊、綿、草、大工、塗師(ぬし)、桧物(ひもの)、四十物(あいもの)」など希少性のある苗字が非常に多く、「珍姓(珍名)の宝庫」ともされる。1875(明治8)年2月13日に、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけた平民苗字必称義務令ができ、「祖先以来ノ苗字不分明ノ向キハ新ニ苗字ヲ設ケ候様…」と書いてあったために、町中が急いで僧侶と相談して、家業などとの関係で名前を付けたためと考えられる。 == 地理 == 射水平野の北部に位置していた。市の北側は富山湾に面しており、市の中央部には放生津潟を掘削して建設された富山新港(伏木富山港新湊地区)が位置していた。 *河川:小矢部川、庄川、内川、下条川、新堀川 *湖沼:足洗潟 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新湊市」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shinminato, Toyama 」があります。 スポンサード リンク
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