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新演劇研究所(しんえんげきけんきゅうしょ)は、かつて存在した日本の劇団である。本項では後継の劇団「新演」(しんえん)についても記述する。 ==概要== 1951年7月1日に新協劇団の演出部に在籍していた色川大吉が下村正夫、瓜生忠夫、土方与志を講師として発足した。当初、日本共産党の党本部と隣り合わせの木造の建物の2階を事務所・稽古場としていた〔信濃毎日新聞松本専売所WEB 私の半生 小松方正「11 演劇の魅力 色川大吉さん率いる研究所へ」 〕。吉祥寺の前進座の稽古場で、新協劇団の研究生であった内田良平、杉浦直樹や大蔵省勤務の小松方正らに対して入所試験を行い、発足当時約60名の劇団研究生を集めた〔信濃毎日新聞松本専売所WEB 私の半生 小松方正「11 演劇の魅力 色川大吉さん率いる研究所へ」 〕。 一時は、舞台芸術学院と並んで、昼間働きながら、夜間に学ぶ演劇学校としての役割を果たしており〔信濃毎日新聞松本専売所WEB 私の半生 小松方正「11 演劇の魅力 色川大吉さん率いる研究所へ」 〕、医師免許を取得したばかりの女医・三條三輪(耳鼻咽喉科開業医、劇作家)も所属していた〔虹企画メンバー 〕。 1952年に寺島幹夫、1957年に仲村秀生が入所し、演劇人の養成機関として注目を集め、劇団としても地方巡回公演に取り組む等、先行の職業劇団とも肩を並べるほどに成長したが、色川大吉が結核で倒れ、調整役から離れると、メンバーの男女関係や政治・演劇に対する考え方の違い等により対立が生じ、1958年に活動を停止し、解散した。1959年3月、劇団「新演」として再出発したが、1963年に劇団としての活動を停止した。 演出家としても活躍する吉沢京夫、劇団東演創立メンバーの笹山栄一、劇団芸術劇場創立メンバーの小林和樹、後に学校法人舞台芸術学園理事長、学長となる兼八善兼ら多くの個性的な演劇人を輩出した。同研究所の解散後は、内田良平、杉浦直樹が松竹に入り、小松方正、寺島幹夫らが大島渚の映画に出演する等、戦後の日本映画を支える俳優を世に送った。 2009年9月4日、彩の国さいたま芸術劇場の若手劇団「さいたまネクスト・シアター」の『真田風雲禄』公演に際して、芸術監督である蜷川幸雄が「若くて無名で才能のある俳優がそこにはいた」と同研究所をお手本となる存在として回顧する〔観劇予報 : 『真田風雲禄』制作発表 vol.1 2009年9月4日 〕など演劇史に足跡を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新演劇研究所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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