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新演技座 : ウィキペディア日本語版
新演伎座[しんえんぎざ]

新演伎座(しんえんぎざ)は、1942年(昭和17年)、俳優長谷川一夫山田五十鈴らと設立した日本の劇団であり、第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)、長谷川が映画会社として改組した日本の劇団である。戦後の名称は株式会社新演伎座である。「新演座」は誤り。
== 略歴・概要 ==

1942年(昭和17年)、東宝映画所属の俳優であった長谷川一夫が、山田五十鈴らと実演の演劇を行うために設立、同年3月1日 - 3月25日東京宝塚劇場で、第一回公演を打った〔平成十二年東京都議会会議録第十一号 (東京都名誉都民の選定の項)、東京都、2009年11月18日閲覧。〕。演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった。
戦局が深まった1944年(昭和19年)、最終公演を行う〔。
戦後、1946年(昭和21年)に活動を再開〔、同年9月9日 - 10月2日、東京・有楽座で、菊池寛作、衣笠貞之助演出の『藤十郎の恋』を公演する。同年11月、長谷川と山田は、第二次東宝争議の最中に「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退した。長谷川と山田は、1947年(昭和22年)3月25日、新東宝の前身、新東宝映画製作所の設立に参加、同社の設立第1作で市川崑監督の『東宝千一夜』にそろって出演した〔東宝千一夜 日本映画データベース、2009年11月18日閲覧。〕。同年11月10日、後援会の会報『新演伎座』第1巻第1号を発行する〔長谷川一夫 、''nihon-eiga.fan-site.net'', 2009年11月18日閲覧。〕。同会報には、田口功夫やのちのマルベル堂社長の三ツ沢正治が携わった〔『新演伎座』、第2巻1号、編集三ツ沢正治、1948年、目次ページ。〕。同年末から1948年(昭和23年)初にかけて、中国地方、四国地方、九州地方を巡業した。
長谷川は同年いっぱいまで新東宝映画製作所に所属したが、1948年(昭和23年)2月、自ら代表となって新演伎座を株式会社化し、「株式会社新演伎座」となる〔 『日本映画発達史 III』、田中純一郎中公文庫、1980年 ISBN 4122003059, p.346.〕。資本金は300万円、清川峰輔が専務取締役に就任した〔。同年、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のCAC(映画芸術協同)と共同で、両社の設立第1作『幽霊暁に死す』を製作、東宝の配給で同年10月12日に公開された〔幽霊暁に死す 、日本映画データベース、2009年11月18日閲覧。〕。同年、演技研究所を発足、若尾文子やのちの紙芝居師・梅田佳声が入所している。
1949年(昭和24年)2月7日 - 3月6日、有楽座で巌谷真一・衣笠貞之助作、衣笠演出の『鬼あざみ (春秋常夜燈)』を上演した。配給提携は東宝に限らず、松竹大映とも行った。
1952年(昭和27年)、経営が思わしくなく、同社を解散した〔。長谷川は大映京都撮影所に入社、山田はフリーランスとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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