|
株式会社新潟三越伊勢丹(にいがたみつこしいせたん)は、新潟県における三越伊勢丹ホールディングスの事業子会社で、「新潟三越」および「新潟伊勢丹」を運営している。 == 沿革 == 新潟三越は、新潟市随一の繁華街 古町の呉服店系小林百貨店を発祥としている。百貨店を開業した1937年には、万代百貨店(後の大和新潟店)も開業。どちらも開店当日には多くの人が押し寄せ、当時の地元紙 は「新しいもの好き市民殺到」とその盛況ぶりを報道した。 当初は品揃え面で小林百貨店が大和を凌駕していたが、1955年の新潟大火以降、10日間で復興した大和に応援する人が増加し、売上首位の座を明け渡すことになった〔読売新聞2010.6.21「さよなら大和」 〕。 1969年の長崎屋を皮切りに、翌年イチムラ(高島屋ハイランドグループ)、緑屋(月賦百貨店)と新潟市にも大型店の進出が相次いだ。田中角栄が1972年の自由民主党総裁選挙に際して「日本列島改造論」を唱え、上越新幹線、関越自動車道の建設計画が発表されたのに連動し、水田が広がっていた新潟駅前は新しい町「万代シテイ」として整備する開発プロジェクトが発足した。 1973年には、ダイエー新潟ショッパーズプラザが万代シテイにオープン。1975年には 三越も直営小型店「新潟三越エレガンス」を万代シルバーホテルビル に出店した。万代シテイは新潟交通のバスセンターを併設していたため、市内のバスがすべてここに集った。新潟ショッパーズプラザは1979年に全国のダイエーの中で売上1位を記録するまでの存在になった。 新潟市の商業の中心地は古町から万代にシフトし、客足を奪われた小林百貨店は当初、伊勢丹主催のA・D・Oに加盟、同じ加盟店である仙台の藤崎と業務提携して挽回を試みた。しかし、この提携関係は藤崎側の都合で軌道に乗らなかったため、三越に支援を仰ぐことになった。その結果、1980年代には古町から長崎屋、イチムラ、緑屋が撤退、淘汰されていく中で生残ることができた。三越本体の経営体制の刷新の中で、名古屋三越や三越本体に吸収合併されていくことにはなったが、老舗店としての強力なブランド力を持って親子三代にわたる根強い支持を得ることができたと言える。 新潟伊勢丹の進出は1984年で、この時はまだ三越とはライバル関係であった。同じ万代シテイ内でも火花を散らすことになったが、2002年にシテイ内の小型店舗は直営売り場を廃止し、ファッション・モール「新潟アルタ」に業態転換した。これにより、従来百貨店には来ていない若い層も取り込んでいくことになった。 三越伊勢丹の経営統合及び地域分社化政策にあたっては、三越新潟店を新潟伊勢丹に直接移管し、同時に社名変更を実施することになった。これは、もともと新潟伊勢丹が別会社による運営だったため、新たに新会社を設立する手間を省いたもの。 一方、新潟アルタは三越伊勢丹専門館事業部(東京)の直轄店舗として残している。これはノウハウの集積等の事情から一体運営としたもので、名古屋のラシックも同様の扱いになっている。 経営統合後、古町で隣り合っていた大和が閉店して新潟県から完全撤退したため、当社が県内唯一の百貨店企業となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新潟三越伊勢丹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|