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悌輔騒動(ていすけそうどう)とは、1872年(明治5年)4月、新潟県および柏崎県(現新潟県)で起きた農民一揆。明治新政府に不満を持つ旧会津藩士渡辺悌輔らが、大河津分水掘削工事の負担に苦しむ農民等を糾合し、新潟県庁の襲撃を図った事件。 日本の封建社会における最後にして最大の農民一揆と言われる。また、首謀者の中に浄土真宗の僧侶が含まれていたことから、当時同宗門徒を中心として起こされていた廃仏毀釈に反対する護法一揆として扱われる場合がある〔吉川弘文館『国史大辞典』「護法一揆」(執筆者:吉田久一)・小学館『日本歴史大事典』「護法一揆」(執筆者:三上一夫)ともに当事件を護法一揆の代表例としている。〕。文献によっては、新潟県分水一揆・大河津分水騒動・信越地方土寇蜂起などの語も用いられている。 一揆は、旧暦4月4日から6日にかけて柏崎県庁へ強訴を行った一行と、4月6日から8日にかけて新潟県庁へ向かった一行とから成る。2つの一揆の間に繋がりは無く、偶発的とするのが通説であり、その意味では新潟県側の一揆のみを「悌輔騒動」と呼ぶべきであろうが、事件の性質から合わせて記述する。 ==事件の背景== 新潟平野を流れる信濃川およびその支流である中ノ口川は、かつては毎年のように洪水を引き起こす暴れ川として恐れられて来た。この抜本的治水策として、2つの川の分岐点より上流に当たり、且つ日本海に最も近い現在の燕市分水地区(旧分水町)付近から分水路を掘削する計画が享保年間より江戸幕府に嘆願されてきたが、莫大な工事費と、流域各藩の利害対立により実現しなかった。 1868年(慶応4年)新潟平野はまたも洪水に見舞われていた。北越戦争により旧幕府軍が敗退すると、流域の村々は新政府側に分水工事着工の嘆願書を提出し、1869年(明治2年)にようやく着工が認められたが、総工費80万両のうち60万両が地元負担という厳しいものとなった。流域の村々には重労働の提供が求められ、更には工事の為の移転を余儀なくされる者、水位の低下による水不足を心配する者もあり、分水工事反対の声が逆に強まっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悌輔騒動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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