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新田 嘉一(にった かいち、1933年〈昭和8年〉10月6日 - )は、日本の実業家。平田牧場会長、東北公益文科大学理事長、平田町名誉町民(現:酒田市名誉市民)。 == 人物・来歴 == 山形県平田町楢橋(現・酒田市)において16代にわたり続く地主に生まれる。父である嘉助は名士で通るも、農業より政治に現を抜かすことが多かったという〔「平田牧場 新田嘉一--絶対にあきらめない情熱が生んだ「日本一の三元豚」山村 基毅」『月刊 潮』 2010年10月号〕。 藤島農業高等学校卒業後、大学進学を希望するも父から「農家に学は必要ない」と断言され首肯する。 戦後の高度経済成長期に入り、和食中心から洋食への食文化の変遷や、庄内地方においても離農し都会に出る人々が増えつつある現状を鑑みた場合、田畑を処分した上で就労の途につく方が暮らしも楽になるのではないかと父に進言するも聞き入れられず、逆鱗に触れ勘当同然の身となってしまう。後日、祖母の取り成しにより父との決別は回避されるも、新田は田畑の耕作は弟に任せ、実質裸一貫、豚2頭で養豚業を始めるに至った〔。 開始当初は、昼夜をおかず豚舎に泊り込み、手探りで養豚に精励する日々が続いた。そのような中において、さまざまな人々との出会いやアドバイスを得つつ、鶴岡生協(現・生活協同組合共立社)との取引を契機に全国の生協グループ各店への商品納入や、ダイエーとの取引も開始し1970年代には事業も軌道にのりはじめた。 しかしその後の、ダイエーとの価格引下げ交渉決裂による同社との取引停止や、時代に先がけて無添加、無着色のハムやウィンナーの販売を手がけるも消費者に受け入れられず、苦戦を強いられるなどの紆余曲折を経つつも、欧州視察の際に知見を得たランドレース種と、アメリカから輸入したデュロック種に鹿児島の黒豚であるバークシャー種を交配し、苦心の末、本邦における豚としては最高値で取引される平牧三元豚を誕生させ、ヒラボクブランドを確立した〔〔 1999年(平成11年)には、設立以来務めてきた社長職を子息である嘉七にまかせ、会長に退き対外活動に軸足を移した〔「ひと劇場 新田嘉七氏「平田牧場社長」」『日経ビジネス』 2009年4月6日号〕。 激しい気性が周囲としばしば軋轢を生むため、地元である酒田では新田に対して冷ややかな視線を送る者も決して少なくはない。だが、酒田大火の為、運営資金が枯渇しつつあった酒田商工会議所に私財を提供し、庄内空港設置の際には前田巌らと共に旗振り役を務めたほか、「庄内に大学を」の一念から東北公益文科大学開学にこぎつける等、郷土の発展ため挺身するスタンスを評価する者もまた、決して少なくはない〔『三元豚に賭けた男 新田嘉一 : 平田牧場の43年』 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新田嘉一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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