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新田 朝氏(にった ともうじ)は、鎌倉時代中期から後期の鎌倉幕府の御家人。新田氏本宗家の7代当主。通称は太郎(六郎太郎では二郎太郎とする)。 新田基氏の長男で、新田義貞・脇屋義助の父。 == 経歴 == 朝氏は後に朝兼と改名した。『尊卑分脈』によると、正和3年(1314年)に、『長楽寺文書』の「新田朝兼在家畠地買券」5月28日付の放券に「源朝兼」と記されている。また、同じ『長楽寺文書』の「関東下知状」8月23日付の書状には「新田六郎太郎朝兼」の名が記されている。 「新田足利両家系図」〔千々和実著『新田氏根本文献』(国書刊行会、1974年刊行)が引用する書物。〕に拠ると、正和2年(1313年)頃に、朝氏は新田一族ゆかりである朝谷氏の頭領である朝谷義秋・正義兄弟が常陸国南部を拠点に悪党として活躍している評判を聞いた。朝氏は遠い親戚である朝谷兄弟を新田荘に招き、自分の妹と領地を与えて優遇した、と記されている。 これ以外の朝氏の事績については資料が乏しいため、その動向はわからない。 文保2年(1318年)に、朝氏は父より先立って、45歳で病没した(秋に亡くなった、とする説もある。病因は『労咳』と伝わる)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新田朝氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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