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新美南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 - 1943年3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美正八(旧姓:渡辺)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。 出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。半田市は生誕100周年にあたる2013年に新美南吉生誕100年記念事業を各種行った。 ==生涯== ;1913年 :7月30日 畳屋を営む父 渡辺多蔵、母 りゑの次男として愛知県知多郡半田町(現・半田市)岩滑(やなべ)で生まれる。この前年に生まれ、生後わずか18日でなくなった長男の名をそのまま付けられた。これは父親が2人分生きてほしいとの願いを込めたもの。父親の好きな講談に登場する英雄梁川庄八に由来する。 ;1917年 :11月4日 母 りゑ逝去(享年29)。 ;1919年 :2月12日 父 多蔵再婚。義母の名は「志ん」。2月15日弟益吉誕生。 ;1920年 :4月1日 知多郡半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)入学。おとなしく目立たない児童で、体は少し弱かったが成績は良かった。 ;1921年 :7月19日 父多蔵離婚。しかし同年12月6日には同じ相手と再婚している。 :7月28日 正八、母方の祖母 新美志も の養子となり、新美正八と改姓。祖母と二人で暮らし始めるが、12月には新美姓のまま実家渡辺家に戻る。 ;1926年 :3月で半田第二尋常小学校を卒業し、4月に旧制愛知県立半田中学校(現・半田高校)へ入学。 ;1928年頃~ :この頃から童謡や詩の投稿を始める。また、文芸誌『赤い鳥』や小川未明の『日本童話集』にであう。 ;1931年 :3月24日 岡崎師範学校(現・愛知教育大学)受験するが体格検査で不合格となる。 :4月1日 愛知県知多郡半田第二尋常小学校の代用教員となるが、8月には一身上の都合で退職している。 :5月 『赤い鳥』に初めて童謡が掲載される(5月号「窓」)。 ;1932年 :1月 『赤い鳥』1月号に童話「ごん狐」掲載。 :4月 東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科文学に入学。 ;1934年 :2月25日 喀血(かっけつ)。この頃顔色も優れず、頻繁に盗汗。 ;1936年 :3月16日 東京外国語学校を卒業。神田の貿易商会に勤めたが、二度目の喀血をして11月に帰郷。 ;1937年 :4月 知多郡河和小学校の代用教員となる。夏に体調をくずし、7月31日退職。 :9月 杉治商会(家畜の飼料製造販売)鴉根山畜禽研究所に入社。 ;1938年 :3月 安城高等女学校(現・安城高校)の教員となる。英語、国語、農業担当。 ;1941年 :10月 初の単行本『良寛物語 手毬と鉢の子』(学習社)刊行 ;1942年 :10月 初の童話集『おぢいさんのランプ』刊行 ;1943年 :1月 病状悪化(喉頭結核)。2月には安城高等女学校を退職。 :3月22日 逝去。享年29。 :9月10日 童話集『牛をつないだ椿の木』、9月30日 童話集『花のき村と盗人たち』と2冊の童話集が相次いで刊行。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新美南吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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