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新美 敏(にいみ さとし、1952年8月2日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == PL学園では、エース、五番打者として1970年の夏の甲子園に出場。田代克業(中大-本田技研)との二本柱で勝ち進み、決勝に進出するが東海大相模に敗れ準優勝に終わる。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商の小川清一投手に投げ勝ち優勝。高校同期の新井宏昌、一学年下の行澤久隆がチームメートだった。卒業後は日本楽器に入社。1972年の都市対抗でチームの優勝に貢献し橋戸賞を受賞。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出される。 1973年に日拓ホームフライヤーズにドラフト1位指名で入団。4月17日のロッテオリオンズ戦で初登板し完封勝利を挙げた〔〕。その後も勝利を重ね、この年は12勝を記録しパ・リーグの新人王を獲得。翌年も12勝を挙げ球宴初出場を果たす。 その後は勝ち星を減らし低迷、1977年に鵜飼克雄、皆川康夫、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍することとなる。広島でも先発で結果を残せず、登板機会が段々と減り引退間近と思われた。しかし1983年から中継ぎに活路を見出し、同年は29試合に登板、5年ぶりの勝星をあげる。翌年も16試合に出場して優勝に貢献し、日本シリーズにも登板。その後も中継ぎとして起用され、1987年に引退した。 その後は広島の一軍投手コーチ(1988年)、二軍投手コーチ(1989年 - 1991年)、古巣・日本ハムで一軍投手コーチ(1992年 - 1994年)を務めた。日ハムコーチ時には広島でくすぶっていた金石昭人の獲得を当時監督だった土橋正幸に進言したこともある。津野浩とのトレードでファイターズに移籍した金石は、見事復活を遂げ主力投手として活躍、新美の投手を見る眼の確かさが証明されたのだった。週刊ベースボールのインタビューに応じた際には、自らの選手生活などについてふり返っている。 2010年から2013年にはクラブチームのウィーン'94で監督を務め、2015年からはエスプライド鉄腕の監督。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新美敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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