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新見錦[にいみ にしき] 新見 錦(にいみ にしき、天保7年(1836年) - 文久3年9月15日(1863年10月27日)?)は、幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(後の新選組)幹部(副長という説もある)。号は錦山(きんざん)とされるが、子母澤寛が記すのみであり、確証はない。姓の読みは「にいのみ」、「しんみ」など諸説ある。 == 出自 == 新見錦は変名であり、水戸浪士で、芹沢鴨の前名とされる下村嗣次と玉造文武館党の同志〔「常野集一」 茨城県立歴史館編『茨城県史料 幕末編 III』、茨城県 1993年 p50~51〕だった、新家粂太郎が本名であるという説が存在する。 新家は神道無念流剣客金子健四郎の門人であり、文久3年(1863年)5月、二条木屋町に旅宿する〔『会津藩庁記録 文久三年 第二』、日本史籍協会 p472~477〕水戸藩士吉成勇太郎と、中山忠能の日記中に芹沢鴨と共に名前が現れる〔中山忠能 『中山忠能日記 原題・正心誠意 第三』、日本史籍協会 1916年7月 p644〕今泉与一太郎と連署した借用書が残っており、在京が確認できる〔『京都新聞』、2015年2月19日 「壬生浪士幹部?の借用証発見 同一人物説の新家粂太郎連署」〕。 同年6月16日、攘夷監察使正親町公董の陪従〔加藤常吉 「加藤任重漫録」 『維新日乗纂輯 第二』、 日本史籍協会 1925年12月 p383〕として長州に下り、暴飲から罪を得て、9月15日に死亡し、当時三田尻の車塚(現山口県防府市車塚1)にあった蘆樵寺に墓石(現存せず)が建立された〔加藤桜老 「復京日記」『榊陰年譜 附加藤櫻老小傳』 笠間稲荷神社、1979年10月 p574〕。没年(数え年)は28歳〔であり、新見の年齢と一致する。「新見久米次郎」との表記〔加藤「復京日記」 『榊陰年譜』 p609〕もされている。また、吉成勇太郎は粂太郎を壬生浪士が手に余すので引き取ったと記している〔吉成勇太郎 『〔尊攘之儀ニ付建白書〕』 岡山大学附属図書館、池田家文庫 文久3年8月〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新見錦」の詳細全文を読む
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