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新開実綱[しんがい さねつな] 新開 実綱(しんがい さねつな、生年不詳 - 天正10年(1582年)9月)は、戦国時代の武将。入道して「道善」「道然」と名乗った。遠江守を称す。阿波国の有力土豪で牛岐城城主。父に新開元実。子は新開実成。新開氏は秦氏流の四国土着の豪族である。 ==概要== 父の代まで阿波細川氏に代々仕えた家柄であったが、守護である細川持隆が家臣の三好実休によって殺されると、実休の娘を妻とし、以後は三好氏に属した。1562年(永禄5年)に実休に従い和泉の久米田の戦いに出陣したが敗走し、その後は剃髪し「道然」と号した。 その後も阿波三好氏の有力な配下として勢力を拡大したが、やがて南部の桑野方面を地盤とし土佐国の長宗我部氏の勢力下となった東条氏と対立するようになった。阿波国南方の要として、長宗我部元親の侵攻を頑強に防いできたが、天正7年(1579年)に東条関之兵衛の要請により出陣した香宗我部親泰の軍勢に敗退し、翌8年には居城である牛岐城を明渡し、長宗我部氏の軍門に降りることとなった。しかし、その後も三好氏とも細々とではあるが連絡を取っていたといわれる。 1582年8月26日の中富川の戦いでは小笠原成助(一宮成助)と共に土佐勢に参戦し勝利に貢献した。しかし、三好への内通を疑った元親は、1582年9月16日、阿波の丈六寺に論功恩賞の相談のためと称して実綱を呼び出し、酒宴を開き酔ったところに刺客を送ったため、実綱は配下の者達諸共暗殺されてしまった。実綱殺害の理由としては、謀反の疑いの他に、征服地の土豪を信頼せず排除し、土佐衆による支配を基本としていた長宗我部氏の方針上、ある程度以上の影響力のある実綱が邪魔だったためともいわれている。なお、土佐側の記録では、実綱は暗殺ではなく元親の命により切腹させられたとある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新開実綱」の詳細全文を読む
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