|
『旅芸人の記録』(希: 、翻字: ''O Thiassos'')は、テオ・アンゲロプロス監督のギリシャ映画。 旅芸人の一行が19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながら、アトレウス家の古代神話を基にギリシャを旅し、1939年から1952年の政治史を中心としたギリシャ史が旅芸人の視点から語られる。「現代ギリシャ史と風景を横断する旅」をテーマとし、ギリシア神話に依拠した、叙情詩的、叙事詩的な作品である。 == ストーリー == ;小劇場開幕 :アコーディオン奏者の老人が、スプリドス・ペレシアドス(, Spyridos Peresiados)作の牧歌劇「羊飼いの少女ゴルフォ ()」全5幕の前口上を述べた後、本舞台の幕が開かれる。 ;1952年11月 :1952年秋、旅芸人の一座がエギオンに到着する。一座の面々は過去と大分違っていた。2日間眠っていなかった。町中では11月16日の総選挙のために軍事政権の宣伝が行われ、ギリシャ内戦で功績をあげたパパゴス元帥に投票せよ、と呼びかけている。12人の旅芸人の一座が重い衣装鞄をさげて歩いていく。 ;1939年秋 :一座は1939年の回想へ入り込んでいく。当時の顔触れである父アガメムノン(座長)、母クリュタイムネストラ、長女エレクトラ、次女クリュソテミスと彼女の息子、長男オレステスの一家に、先頭をゆくピュラデス、「詩人」と呼ばれる青年、老男優に老女優、アコーディオン奏者の老人、そしてアイギストスがいる。 :広場では男が自転車を押しながら「ゲッベルス閣下が、メタクサス将軍の先導で、オリンピア見学の途中、エギオンに来訪する」と声をあげて宣伝している。アイギストスはカフェの机に上がり、ファランへ主義者(ファシスト)のスタイルでファランギ賛美の歌を歌う。クリュタイムネストラは毛皮のコートを着てその傍らに着席している。アイギストスの姿勢に賛同できないピュラデスは、「ραγισμένη καρδιά (悲しみの心)」を歌い上げる。 :一座の出し物は「羊飼いの少女ゴルフォ」。ヒロインのゴルフォとその恋人タソスの牧歌的悲恋を描くもので、エレクトラがゴルフォ役を母親から受け継ぎ、弟オレステスがタソス役を父親から受け継いだばかりであるが、兵役に召集されたオレステスに代わり、ピュラデスがタソス役をすることになった。 :その夜、エレクトラは、母クリュタイムネストラとアイギストスの密通を目撃してうちひしがれる。特別休暇で兵役から戻っているオレステスがタソス役としてエレクトラを慰める。「羊飼いの少女ゴルフォ」の幕が上がる。タソスとゴルフォの芝居が幕を明けると、アイギストスの密告により、ピュラデスを拉致する秘密警察(公安)が侵入し、公演が中断される。翌朝、ピュラデスは「遠島」のため小船に乗せられて収容所へ旅立つ。オレステスと「詩人」とエレクトラの3人がその船を見送る。 ;1940年10月28日夜 :蒸気機関車の牽く車内でアガメムノンが、1922年にギリシャ軍が小アジアに侵攻して敗北した際、難民としてイタリアの船で小アジアからギリシャ本土に帰国した時のことを回想する。 :一座が降り立った海岸沿いの駅では、街の人々が「ギリシャ人は再び剣を抜く」と歌っている。その夜の公演の冒頭、アガメムノンは「1940年10月28日朝5時30分、アルバニア国境から侵攻したイタリア軍をギリシャ軍は撃退した。本日はその戦勝を祝いたい」とギリシャがイタリアの国内自由通過を拒否して第二次大戦に参戦したことを賛美する。ゴルフォ役はエレクトラ、タソス役はアイギストスで公演の幕が開くが、空襲が始まり、中止せざるを得なくなる。 :「あなたはもう私を愛していない」(ひなげしの歌)と歌っているクリュタイムネストラに、アガメムノンは予備役で兵士になったことを得意げに告げるがクリュタイムネストラは嘲笑する。アガメムノンは彼女を平手打ちにし、立ち去る。クリュタイムネストラの部屋にアイギストスが入っていく。 ;1941年4月27日 :ギリシャ全土がドイツ軍の機甲師団によって占領された。時を越えた1952年の一座は波止場に散策に出る。彼らの通り過ぎた道を軍事政権のパパゴス元帥の選挙応援車が通過する。同じ道を1942年のドイツ軍の軍用車両も通り過ぎる。 ;1942年冬 :ドイツ軍が、イギリスの送りこんだスパイとパルチザンを追跡しており、一座の宿が捜索を受ける。アイギストスの密告で、オレステスがパルチザンの一員であることを察知していたドイツ軍は、身代わりにアガメムノンを連行する。死を前にしたアガメムノンは「私はイオニアの海から来た、君たちは何処から?」と問うが銃殺隊は答えず、アガメムノンを射殺する。 :旅芸人の一同は、座長となったアイギストスに黙従するだけだった。「文句があるやつは去れ」と宿舎で怒鳴るアイギストスを横目に老男優が去っていく。 ;1943年 :ある日、脱獄に成功してパルチザンとなったピュラデスが、オレステスと合流するためにエレクトラを訪ねてくる。一方クリュソテミスは、食料のオリーブ油をもらうためにドイツ軍の協力者である雑貨屋の暗い地下倉庫で、下着一枚の姿になって海と愛に希望を託す詩歌を歌う。クリュソテミスが出ていった後、雑貨屋は射殺される。 ;1944年年頭 :一座は「皆さま、お越しください」と歌を歌いながら雪道をたどっていくが、吊し首にされた反独パルチザンの死体が木にさげられているのを見て歌うのをやめる。木の脇にはパルチザン協力者にも同様の処置をする旨の告示が掲げられている。 ;1944年春 :海岸通りの道を一般乗り合いバスで移動中、ドイツ軍の停止命令により全員下車させられる。ヴェネツィア時代の城塞に誘導させられ、旅の一座も銃殺されることになるが、パルチザンの襲撃で難を逃れる。 :ドイツ軍は撤退し、国民統一政府の成立を祝して、国民解放戦線(ΕΛΑΣ)の一行が声をあげて海岸沿いを行進してゆく。 ;1944年9月から12月 :革命の歌が響き渡る中、群集が示威行動に参加して前進する。シンダグマ広場の血の日曜日、これらの群集にゲオルギウスホテルから銃撃が浴びせられる。銃火の中を一座はアテネ中心街から脱出する。数日後、海辺でイギリス軍に誰何されるが役者と判り、頼まれてその場で「羊飼いの少女ゴルフォ」を演ずる。イギリス人も返礼としてイギリス舞踊をするが、パルチザンに狙撃され1名が死亡して一座と英兵は四散する。 ;1945年1月 :一座が山岳地域で興行の際、エレクトラはパルチザンの拠点でオレステス、ピュラデス、「詩人」と再会し、3名を連れて劇場に戻る。「羊飼いの少女ゴルフォ」が演じられているところに踏み込んだオレステスはアイギストスと母親のクリュスタイメストラを射殺し、復讐を果たす。観客は殺害も演技の一部と思い込んで喝采を送る。 :夜、母親の部屋で「ひなぎくの歌」のレコードを聴くエレクトラを秘密警察の男が拉致する。オレステスの居場所を追及されたエレクトラは強姦されたうえに、ゴミ捨て場に放置される。 :翌朝、起き上がったエレクトラは、ドイツ軍の撤退後33日間続いたイギリス系の右派とパルチザン勢力の左派との内戦であるアテネ市街戦(死者28人、負傷者200人)の事情を語る(比較的長いモノローグ)。 ;1945年2月 :1945年2月12日に結ばれたヴァルキザ合意(内戦の調停)により、武装勢力は武器を放棄する代わりに政治犯の罪を問われないことになった。この協定に従わないパルチザンは以降「反体制ゲリラ」として違法な勢力と看做され、掃討されることになる。 :クリュソテミスは息子を残し、家をイギリス兵とジープで出て行く。オレステスの事情を尋ねるため、エレクトラの部屋には秘密警察(公安)の刑事が訪れる。 ;1945年大晦日・1946年元旦-1952年 :大晦日のダンスホール、芸人一座のアコーディオン奏者がバンドに加わっている。武装解除された進歩派の青年男女と、王党派の壮年男性が歌合戦を繰り広げる。歌合戦で勝ち目のなくなった王党派が拳銃で威嚇し始めると、進歩派の青年達は退席する。ダンスホールを出た王党派は「X賛歌」(ギリシャ人は血を見ない—血を見るのは共産主義者だけ)を歌って街を歩いてゆく。カットはそのままで、1952年のパパゴス元帥の選挙演説の場へと時は移行する。そこを歩いていく52年の旅芸人一座。 ;1949年 :内戦で違法なゲリラと看做された元パルチザンの首をさらして走るイギリス軍のジープ。後に続くパルチザン捕虜の中にオレステスの姿を見たエレクトラは、パルチザンが整列させられているところにオレステスの姿を見に行く。オレステスは笑顔で応える。 ;1950年 :エレクトラに転向宣誓のことを問われたピュラデスが、「転向」しないと生きて出られない収容所の実態を詳細に語る(比較的長いモノローグ)。エレクトラとピュラデスは「詩人」と再会して再び一座に加わるように要請し、それに「詩人」は詩で応える。海辺ではクリュソテミスと米兵の結婚披露宴が行われる。青年になったクリュソテミスの息子は、テーブルクロスを引き剥がし、無言の不承諾を示す。 ;1951年 :エレクトラは政治犯収容所で獄死したオレステスの遺体と対面し、「おはよう、タソス」と呼びかけて泣き崩れる。暗い空の下で遺骸が埋葬される場面で、エレクトラを初めとする一座は懸命に手を叩くが、ひとり「詩人」は空を仰ぐ。 ;1952年11月 :アコーディオン奏者の老人が曲を奏でる中、クリュソテミスの息子がタソス役で初舞台に望む。エレクトラは彼のメーキャップを終えて思わず「Ορέστη!(オレステス)」と呟く。 ;1939年秋 :冒頭(1952年11月)と同じ場所、エギオンに降りたった旅芸人の一座。1939年当時の面々がいる。2日間眠っていなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旅芸人の記録」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|