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旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。 ==背景== ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を第一太平洋艦隊の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、旅順口を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。 日本は、日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。 このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討されたが、旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた。 海軍側は独力で旅順問題を処理することを考え、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃沈という作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。陸軍側は参謀本部が満州攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面への北進に集中し、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留める考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた〔奥村房夫監修『近代日本戦争史 第一編』(同台経済懇話会1995年)505p〕。 1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。 開戦後、海軍による港外奇襲と港口閉塞作戦が実行されたが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊を対ウラジオストク巡洋艦隊専任に割かねばならなくなったが、港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。陸軍では、3月上旬までは封鎖監視で十分であると判断していたが、最終的に、3月14日、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。 3月27日、海軍の第二回閉塞作戦が実行されたが不成功だった。 4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。 ロシアは5月にバルト海艦隊(バルチック艦隊)の主力艦船群の極東派遣を決定した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満州での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。 このような経緯により攻城特殊部隊を擁する第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される北方戦線に向かう第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され、これに当てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旅順攻囲戦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Siege of Port Arthur 」があります。 スポンサード リンク
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