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旗振り通信[はたふりつうしん] 旗振り通信(はたふりつうしん)は、江戸時代中期から明治期にかけての日本で、米相場など〔米のほか油・株式・金銀の相場情報の伝達に用いられた(柴田2006、19頁。)。〕の情報を伝えるために活用されていた、旗などを用いた通信システム(大型手旗信号の一種)である。気色見(けしきみ)、米相場早移(こめそうばはやうつし)、遠見(とおみ)ともいう〔柴田2006、25頁。〕。 == 歴史 == 旗振り通信は江戸時代中期、全国の米価の基準であった大坂の米相場をいち早く他の地域に伝達するため、さらに地方の相場を大坂に伝えるために考案された〔柴田2006、2・7頁。〕。起源は紀伊国屋文左衛門が江戸で米相場を伝達するために色のついた旗を用いたことにあるといわれており〔柴田2006、3頁。〕、旗振り通信が初めて登場した文献は1743年(寛保3年)の戯曲『大門口鎧襲』とされている〔柴田2006、4頁。〕。 従来米相場の伝達には飛脚(米飛脚)・挙手信号・狼煙などが利用されており、江戸幕府は米飛脚を保護するため旗振り通信禁止の触れ書きを出した〔柴田2006、5頁。〕。ただし禁止令は摂津国、河内国、播磨国の3国に対してのみ言い渡されたものであったため、堂島から飛脚を住吉街道を通って和泉国松屋新田まで走らせ、そこから大和国十三峠、山城国乙訓郡大原野(小塩山)、比叡山、大津へ抜けるルートを使って情報伝達が行われた〔柴田2006、5頁。〕。 1865年(慶応元年9月)、イギリス・フランス・オランダの軍艦が兵庫沖に現れた際に旗振り通信によって速報がされたのをきっかけに禁止令は解かれた〔柴田2006、5-6頁。〕。以降旗振り通信は盛んに行われ、明治には政府公認の仕事となり、相場師、めがね屋などと呼ばれた〔柴田2006、20-22頁。〕。 1893年(明治26年)3月に大阪に電話が開通すると次第に電話にとって代わられ〔当初は電話の接続に時間を要した(大阪和歌山間で1時間以上)ことから旗振り通信が用いられたが、大阪市内に高層建築物が増えたことや1914年(大正3年)12月以降市外電話の予約ができるようになったことから旗振り通信は廃れていった(柴田2006、6-7頁。)。〕、大気汚染によって旗の視認が困難になったこともあり、1918年(大正7年)に完全に廃れた〔柴田2006、6-7頁。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旗振り通信」の詳細全文を読む
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