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日夏耿之介 : ウィキペディア日本語版
日夏耿之介[ひなつ こうのすけ]

日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年明治23年)2月22日 - 1971年昭和46年)6月13日)は、日本の詩人英文学者。本名は樋口國登(ひぐち くにと。通称は圀登)。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人など30数種類を数える。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。
詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體〔『黒衣聖母』序文〕と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また訳詩、文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治・大正期の文学論でも知られる。
== 生涯と作品 ==
長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。母方の親戚に勤王家松尾多勢子がいる。いとこの妻は小林一三の姪。1904年に上京して母方の叔父の樋口龍峡に身を寄せる。長野県立飯田中学から京北中学校に転入するが、1906年に病気のために中退。
翌年北海道に旅行し、旭川新聞に「北海印象記」を連載。1908年に早稲田大学高等予科入学、1911年頃から詩作を始め、在学中の1912年から西條八十らと同人誌『聖杯』を創刊し作品を発表、翌年『假面』に改題し、1915年まで発行する。1913年『國學院雑誌』に「國語と語感と表現と」を発表し、以後も『早稲田文学』『水甕』『詩歌』などに作品発表。1917年に第一詩集『轉身の頌』を家蔵版として刊行、同年芥川龍之介らとアイルランド文学研究会を結成した。以後『黒衣聖母』『黄眠帖』『咒文』を出版。1922年から『中央公論』で明治、大正の詩史について掲載を始める。
1924年、再従妹の中島添子と結婚。大正末期から「大正デモクラシイ詩壇」からの批判に嫌気がさして、ほとんど詩の執筆をしなくなり(『文学詩歌談義』「序」)、学究的な仕事と、欧米の詩の翻訳、オカルティズム研究、随筆執筆などを主にする〔富士川義之の解説(『荷風文学』 平凡社ライブラリー、2005年)〕。1924年から1927年まで、石川道雄堀口大學西条八十らと雑誌「東邦藝術」(3号から「奢灞都」(サバト))を発行、フランスイタリアイギリスアイルランドの文学の紹介、翻訳などを行い、ここでの叢書企画からE.T.A.ホフマン『黄金寶壷』(石川道雄訳)、E.A.ポー『タル博士とファザア教授の治療法』(龍膽寺旻訳)が刊行された。
1927年「楚囚文學考」ではいちはやくゴシック・ロマンスを日本に紹介するとともに、日本の古典怪奇・幻想文学との対比を行い、1951年「徳川恠異談の系譜」も著す。1928年に雑誌『パンテオン』を監修、発刊し、翌年まで10号を発行。1939年にジョン・キーツのオード創作心理過程と漢詩の比較論「美の司祭」で早稲田大学より文学博士号を授与。
翻訳者としては、壮麗な雅語を駆使してワイルドポー日本語に移し替え、三島由紀夫澁澤龍彦に多大な影響を与えた。1930年に病床に就き、以後7年間を病に過ごし、1933年から翌年までは療養のため鵠沼海岸に転地するなど、病弱で肋間神経症、喘息を持病とし、42歳からは心臓急搏症で家居にて文筆活動を行っていた。また、自身の部屋には聖母マリアの絵が掛けられていた。
1945年郷里の飯田市に疎開し、早稲田大学教授を辞任、翌1946年帰京。1956年に脳溢血の発作で倒れ、再び飯田市に帰郷。1962年に飯田市に詩碑が建立された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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