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日本とウクライナの関係は18世紀における『古事類苑』の「露西亜上」(外交部21)内で、ウクライナ人がロシア帝国によって領土が奪われたコサックとして記述されているのをもって、端緒とする。 ウクライナは長い間ロシアの支配下にあったため、民間の交流は日露の国際関係の影響を受けていた。20世紀においてウクライナ人は、日露戦争と日ソ戦争に参加し、ロシアの極東の植民地化に加担する一方で、日本と秘密裏の交渉を行い、日本の支援のもとで沿海州におけるウクライナ人の居住地区(緑ウクライナ)をロシアから独立させようと計画していた。1991年にウクライナがソ連から独立を果たすと、1991年12月28日に日本国政府はウクライナを国家として承認し、1992年1月26日には両国間の外交関係が設立された。 ==歴史== ===日露戦争=== 1904年から1905年にかけて多くのウクライナ人は日露戦争にロシア側に参加させられた。ウクライナ出身者が最も多かったのはロシア帝国軍第10軍団であった。その軍団は、第9ポルターヴァ歩兵師団と第31ハルキウ歩兵師団から編成され、1904年の春にキエフ軍管区から満州へ送られた。しかし、戦闘中に軍団は多くの死傷者を出して軍管区へ帰還された。1905年の春にオデッサ軍管区から第15歩兵師団と第4狙撃兵旅団が戦地へ送られたが、その時戦争は既に終わっていた。日露戦争に参加したロシア帝国軍の兵卒の中では、ウクライナ出身者よりロシア極東に居住していたウクライナ系移民の方が多かった。彼らはアムール・コサック、シベリア・コサック、ザバイカル・コサックの諸軍に編成され、日本陸軍と交戦した。 また、ロシア帝国軍の将校には旧ザポーロジャ・コサック出身者が沢山いた。例えば、ロシア満州軍総司令官を務めたチェルニーヒウ県の貴族ミコーラ・リネーヴィチ大将、クバーニ・コサックとドン・コサックから編成された混成コサック師団の司令官を務めたパウロー・ミーシチェンコ大将、第2シベリア軍団の司令官ムィハーイロ・ザスーリチ中将、第10陸軍軍団の司令官カピトン・スルチェーウシキー中将、ザバイカル・コサックの隊長で、後に1918年に独立したウクライナ国の首脳となるパウロー・スコロパードシキー少佐などであった。さらに、日露戦争においてロシア側の最大の英雄と称されたロマーン・コンドラテーンコ中将もウクライナ系の人物であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本とウクライナの関係」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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