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本項目では日本における人糞の利用(にほんにおける じんふんのりよう)について述べる。 == 農業への利用 == 東アジアで人糞を肥料として用いたことが確認される最初の例は、鎌倉時代の日本と言われている〔樋口清之『梅干しと日本刀』祥伝社。ISBN 978-4396312015。〕。 人糞を肥料として用いるのは、世界的に見ると一般的なものではない。多くの国・民族において、人糞を人間の食料を生産する畑に投下することは忌避されてきた。例えば明治期にアイヌ民族がなかなか農業に馴染まなかったとされるが、その最大の問題は人糞を肥料に用いることであったといわれる。 室町時代の朝鮮通信使も「日本では人糞を肥料とし、農作物の生産高が非常に高い」と記している〔参考:有田正光・石田多門共著『ウンコに学べ!』ちくま新書。ISBN 978-4480059161。〕。 江戸時代には、その人糞を出す階層により、その価値が違い、栄養状態のよい階層(最上層は江戸城)から出された人糞は、それより下の階層(最下層は罪人)が出す物より高い値段で引き取られた。江戸城から出る人糞は、葛西村が独占していた。長屋に併設された共同便所は、これらの肥料原料を効率良く収集するために設置され、ここから得られた肥料で城下町周辺部の農地は大いに肥え、町民に食糧を供給し続けた。江戸落語の中に店子が喧嘩した大家へ「二度とてめえの長屋で糞してやらねぇ!」と捨て台詞を吐く、やや分かりにくい描写があるがこういった背景を考えると分かりやすい。 明治時代においても人糞は貴重な肥料であり、高値で引き取られた。そのため、学生などが下宿する場合においては、部屋を複数人以上(具体的人数はその時の取引相場で異なる)で共同で借りた場合は、部屋の借り賃が無料になることもあった。 第二次大戦後、マッカーサー率いるGHQは日本のサラダに人糞の細菌と寄生虫が多数混入していたため、日本政府に人糞肥料の中止を命じた。日本政府は「寄生虫予防会」を各市町村に作り、人糞肥料から化学肥料へと一大転換が行われた〔。しかし、1955年頃になっても学校の保健室には「よい子はなま野菜を食べないようにしましょう」といった表題のポスターが貼ってある状況だった〔有薗正一郎『近世庶民の日常食 百姓は米を食べられなかったか』海青社、2007年4月、208頁。ISBN 978-4-86099-231-6。〕。ただちに人糞肥料から化学肥料の使用へと完全移行した生産者は多くなかったのである。 肥料として用いる人糞は、そのまま使うと作物が根腐れするため、たいていは肥溜めに溜めて発酵させて利用する。ちなみに発酵中の物は非常に臭いが強く、さらに衛生害虫になるクロバエ類やニクバエ類、またカの中でも最も富栄養状態に適応したオオクロヤブカの発生源となるなどの問題があった。また、人糞肥料を媒介とした寄生虫の流行も問題となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本における人糞利用」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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