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日本における追放刑[にほんにおけるついほうけい] 本稿では、日本における追放刑(にほんにおけるついほうけい)の概要、歴史を述べる。 現在の日本では法定刑としての「追放」は実施されていないが、中世には追却(ついきゃく)、近世には払(はらい)などとも称され、中世・近世にわたって広く行われてきた刑罰の1つであった。 == 概要 ==
=== 古代 === 日本神話の世界では、スサノオが高天原から神逐とされた逸話があり、これを追放刑の始まりと考えもある〔石塚『国史大辞典』「追放」〕。平安時代後期の寛弘8年(1011年)、律令法においては刑に処せられた者は刑期を終えた後は本貫に戻されることになっていたが、平安京を本貫とする京戸に対しては移郷の対象として平安京からの追放することを認めている(『権記』・『御堂関白記』寛弘8年9月20日条)。ただし、この措置は実際には以前から行われており、その違法性が指摘されたために改めて太政官陣定において合法とする解釈を下したものである。また、同じ頃に付加刑的な財産刑の一環として犯罪者の居宅の「壊取」(取り壊し)が検非違使によって行われている(『小右記』寛仁3年(1019年)8月23日条・『中右記』永久2年(1114年)9月3日条)。同じく、保延5年(1139年)7月28日に金剛峯寺に出された鳥羽法皇院庁下文(『平安遺文』2412号)においても、同寺の覚鑁と対立した石清水八幡宮神人坂上有澄が恩赦の対象になったことに関連して、覚鑁を支持する法皇は有澄の帰住を不可能にするために住宅を破却して石清水の境内から永く追い払うことを命じている。こうした住居の壊取・破却措置の実施は犯罪を犯した者が刑を終えた後も元の居所に帰れなくして事実上の追放処分とすることが目的であったと考えられている。こうした付加的な措置の背景には律令制の弛緩によって戸籍などが機能しなくなって人の移動が流動性を持ち始めたことや治安の悪化に対する対応策であったと考えられている〔渡邉「使庁における追放と財産刑の形成-住宅〈壊取〉を中心に-」(2011年第1部第1章、原論文発表は2004年)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本における追放刑」の詳細全文を読む
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