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日本のデフレーション : ウィキペディア日本語版
日本のデフレーション[にっぽんのでふれーしょん]
本項では、日本のデフレーションについて記述する。

== 日本のデフレーション史 ==

1880年代前半の日本では、大蔵卿(1885年明治18年)の内閣制度発足に伴い、大蔵大臣)の松方正義が緊縮財政を行い、それまで濫発されていた不換紙幣を償却し、日本銀行を設立して銀本位制が実現された。この緊縮財政の結果、日本はデフレ不況となった(松方デフレ)。
日本では、第一次世界大戦後、日本全体の物価が下落し、失業率が上昇するデフレ不況となった〔田中秀臣・上念司 『震災恐慌!〜経済無策で恐慌がくる!』 宝島社、2011年、28頁。〕。
また、濱口雄幸首相と井上準之助蔵相が緊縮財政を行い、1930年に円切り上げ(円高)となる旧平価で金本位制に復帰し(いわゆる金解禁)、デフレ不況となった。日本の昭和恐慌期の年間の物価下落率は10%を超えた〔岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、229頁。〕。翌1931年には11.5%の物価の下落が起きた〔田中秀臣・上念司 『震災恐慌!〜経済無策で恐慌がくる!』 宝島社、2011年、39頁。〕。
日本は、1920-1931年の12年間は、1920、1924、1925年を除くと消費者物価指数が対前年比マイナスの長期のデフレであった〔田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、42頁。〕。消費者物価指数は、1924年1.2%、1925年-4.5%、1925年-1.5%、1926年-1.5%、1927年-3.8%、1929年-2.3%と、1924年は僅かに上昇し、1925年以降はデフレ型経済に傾斜していった〔麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、228頁。〕。1926-1931年の6年間、日本のデフレは続いた〔岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、213頁。〕。1920-1932年の消費者物価の対前年比はマイナス3.2%であった〔田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、222頁。〕。
第二次世界大戦後、1949年に超均衡予算を中心とするドッジ・ラインが実施されて、デフレ不況(ドッジデフレ・安定恐慌)が起こった。
1989年から1990年には、日本では急激な利上げと総量規制による貸出の制限で、マネーサプライの伸びがマイナスになるほどの引締め政策でバブル崩壊が起き、1992年以降ディスインフレーション(物価上昇率の低下)の傾向を示すようになった。日本は企業物価指数で1991年11月以降、GDPデフレーター1994年第4半期以降、消費者物価指数で1998年9月以降デフレとなった〔岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、78-79頁。〕。
1997年(平成9年)の消費税等の増税・歳出削減などの緊縮財政により日本の消費者物価上昇率がマイナスになり、デフレの様相を呈するようになった。同年に発生したアジア通貨危機や、これに続いた日本の金融危機も原因として挙げられている。日銀による2000年のゼロ金利政策解除や2001年の国債30兆円枠による緊縮財政、民営化規制緩和などの経済政策により、日本のデフレはさらに激しくなった。
2001年3月、日本政府は日本経済が「緩やかなデフレ」状態であることを公式に認めた〔第一勧銀総合研究所編 『基本用語からはじめる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、99頁。〕。同年3月19日からデフレ期待を解消し停滞を打破するために日銀の量的緩和が開始された。この政策には、ゼロ金利の長期化が予想されることで中長期の金利を低下させる時間軸効果があるとされる。名目金利は0パーセントまでしか下げられず、デフレ下ではそれ以上の金融緩和ができない(流動性の罠)とされるが、インフレ期待などを通じた間接的な効果があるかどうかについては、様々な議論がある。
2006年2002年からの緩やかな景気回復により消費者物価指数ベースでのデフレ終了が見込まれ日銀の量的緩和が解除された。しかし、生鮮食品と石油関連価格を除いた実体的な物価を表すコアコアCPIを見ると、日本はまだデフレ傾向にあったため、翌年の2007年から景気の転換局面に入ってしまった〔。
2008年世界金融危機とそれに伴う不況により、デフレスパイラルは日本のみならず世界規模での再来が懸念された。日本以外の国の中央銀行は、総需要を増加させるために自国の市場に大量の資金を投入したが、日銀は金融緩和余地の少なさを理由に量的緩和をほとんど行わなかったため、日本のコアコアCPIは0%を下回り、その後約-1.5%まで下がった〔。
2009年11月20日、日本政府の月例経済報告において、日本が「緩やかなデフレ状況にある」と3年5カ月ぶりにデフレを認めた〔勝間和代 『自分をデフレ化しない方法』 文藝春秋〈文春新書〉、2010年、18頁。〕。同年12月18日、日本銀行白川方明も日本がデフレ状態であることを認めた〔勝間和代 『自分をデフレ化しない方法』 文藝春秋〈文春新書〉、2010年、19頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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