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日本の労働運動史(にほんのろうどううんどうし)では、日本における労働運動の歴史を述べる。 ==戦前== 日本では明治維新以来、「富国強兵」・「殖産興業」の名のもとに急速な工業化が進行したが、労働者の生活については省みられる事がほとんどなかった。1897年、片山潜・高野房太郎らが「労働組合期成会」を立ち上げたのを機に日本で最初の労働組合が結成されるが、1900年に治安警察法が制定されてストライキを違法行為と定められるとともに労働運動の弾圧が始まり、1902年には労働組合期成会も解散に追い込まれた。1904年に『共産党宣言』初めて邦訳された。1912年、鈴木文治らによって結成された「友愛会」は労働問題の平和的な解決を目指す団体であったが、次第に労働組合化して日本労働総同盟となり、後の「日本労働組合総同盟」の母体となった。ロシア革命の成功後、労働運動も政府側の弾圧も激化する事になる。 そんな中で象徴的な出来事が1919年10月10日にあった。内務大臣床次竹二郎が西日本の博徒の代表を呼んで食事会を行い、その中で床次より博徒達に対して労働運動弾圧への協力要請がなされた。明治政府以来、賭博犯処分規則の施行等によって反政府活動以外の分野で最も重要な治安政策が博徒の取締であった。ここにおいてその大方針を放棄してまで労働運動弾圧に当たろうとした事は、当時の政府がいかに労働運動を危険視していたかを裏付けるものである。これらの博徒達が結成した大日本国粋会は、以後の労働運動弾圧のための、政府が手を下す事を憚られる実力行使を行なう暴力装置として活躍する事になる。 1923年の関東大震災直後には労働組合の指導者が虐殺されるという亀戸事件が起きた。また、同年に日本共産党が創立されたが、1945年までは非合法組織だった。1925年には治安維持法が制定される事になる。 1927年には、戦前では最長(216日間)のストライキを含む、野田醤油労働争議(千葉県野田市)が起こる。1927年4月の賃上げ交渉から始まった争議は9月まで続き、ストに突入する。スト参加者は全員解雇されたが日本労働総同盟の支援を受けストを続行。会社側は警察はもちろん、暴力団にいたるまでの暴力装置を用いたため、組合組織は壊滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本の労働運動史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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