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日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。 == “しろ”の語源 == 漢字の「城」(音読み:じょう)を訓読みで“しろ”と読む。 古代から中世初期までは、「城」のほかに「柵」という字も用い、ともに“き”と呼ばれていた(→城 (き))。飛鳥時代から奈良時代にかけての城、たとえば、大宰府のそばにある「大野城」は“おおののき”であり、山形県の「出羽柵」は“いではのき”であった。 しかし、“やまうしろ”と読まれていた山背国(現在の京都府が所在する地域)が平安時代初期の延暦13年(794年)11月15日に山城国に改名されると、「やまうしろ」が転訛して「山城」を“やましろ”と読むようになる。そのうちに、漢字の「城」に「しろ」という訓を当てるようになったと喜田貞吉は論じている〔城戸久「城と天守」(毎日新聞社編『城と民家』1966年より)新人物往来社編『別冊歴史読本〔24〕 日本名城総覧』新人物往来社 1999年〕。その後、山に城を造って領国を守る時代が訪れ、中世後期には「城」は“しろ”と読まれた〔「しろ」〕。文明6年(1474年)の文明本『節用集』には、「城」に“シロ”の訓がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本の城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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