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日本の敗戦 : ウィキペディア日本語版
日本の降伏[にっぽんのこうふく]

日本の降伏(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)では、第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争)末期の日本による「ポツダム宣言」の受諾を経て、日本による降伏文書の署名に至る日本および日本の占領地の出来事を説明する。
==ポツダム宣言受諾までの経緯==

1944年(昭和19年)7月に東條内閣が倒れて以後、戦争終結への動きが具体化し始める。この時点でアメリカ軍の反攻による本土への空襲も時間の問題となっていた。1945年(昭和20年)2月には、近衛文麿元総理大臣を中心としたグループは、戦争の長期化がソビエト連邦軍による占領(“日本の赤化”)を招くと主張して、戦争の終結を主張する「近衛上奏文」を昭和天皇に進言した。しかし、昭和天皇はこれを却下し、後には工作を察知した憲兵隊により、吉田茂(後の首相)・岩淵辰雄殖田俊吉らいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕されている。そして軍部は「国体護持」を主張して戦争を継続した。
一方で、当時小磯内閣本土決戦を進めながら、同時に和平工作を模索していた。1944年(昭和19年)に宇垣一成陸軍大臣を中国に派遣して蒋介石政権との和平交渉を打診した。そして、1945年(昭和20年)3月には南京国民政府高官でありながら既に蒋介石政権と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼している。だが、当時の重光葵外務大臣は繆斌を信用せず、小磯国昭総理大臣と対立して結果的に内閣総辞職につながった。
4月7日に成立した鈴木内閣の外務大臣東郷茂徳は、翌年4月には期限が切れるとは言え、未だに日ソ中立条約が有効であったソビエト社会主義共和国連邦を、仲介とした和平交渉を行おうとした。東郷自身はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が中立条約の終了時もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいるため、ソ連が和平の仲介すると言えば軍部もこれを拒めないこと、ソ連との交渉が破綻すれば日本が外交的に孤立して軍部も実質上の降伏となる和平条件を受け入れることになるという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使としてモスクワで、ノモンハン事件を処理しソ連との和平を実現させたという経験も背景にあったとされる。
5月の最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸海軍大臣・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)では、ソ連の参戦防止・中立確保のための交渉を行う合意を得た。当初はこれに戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸軍大臣が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」として反対したため、前記の2項目のみを目的とすることになった〔長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151〕。東郷は、元上司で元首相広田弘毅ヤコフ・マリクソ連大使と箱根などで会談させたが、具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言せず、はかばかしい成果は得られなかった。6月6日の最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されると、内大臣の木戸幸一と東郷、米内光政海軍大臣は、戦争の際限ない長期化を憂慮し、ソ連を通じた和平の斡旋へと動き出した〔『暗闘(上)』p198〕。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋をすみやかにおこなうよう政府首脳に要請した〔『暗闘(上)』pp.290 - 212、218 - 220〕。しかし東郷は広田・マリク会談に時間をかけすぎ、進展が見られなかった(広田はマリクとの最後の会談でソ連に和平斡旋の条件として、満州国の中立化などを提案している〔『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 P.147〕が、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった〔『暗闘(上)』p226〕)ことから、天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた〔『暗闘(上)』pp.248 - 250〕。東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった。
しかし、すでにソビエト連邦は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヶ月以内の対日宣戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスの陸海軍駐在武官からソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり〔NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。〕、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐からシベリア鉄道における兵力の極東方面への移動が関東軍総司令部に報告されたり〔NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川文庫、1995年、pp.204 - 208〕していたが、これらの情報は軍・外務省の間で共有されなかったり、希望的観測のもとに軽視される結果となった。7月のポツダム会談では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待して「ノーコメント」とする方針を取り〔これが「黙殺」と報道発表され、「宣言拒否」と連合国側に受け止められる口実となった。〕8月の広島・への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦を回避することはできなかった。ソ連の参戦は、その仲介に最後の希望を託していた日本政府に大きな影響を与えた〔遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書239ページ〕。そしてポツダム宣言受諾へ踏み切らせるきっかけとなった〔。ところが8月9日、最高戦争指導部会議では、ポツダム宣言が要求している無条件降伏は問題とならず、天皇の地位の保障(「国体護持」)を条件につけようとする東郷外相の案と、その他に「自主的な武装解除」・「日本の手になる戦争犯罪人の処罰」・「連合軍の占領に対する制限」などの条件をつけようとする軍部の案が対立した〔。この日、長崎に2発目の原子爆弾が投下され、さらに10数万人の死傷者が生まれた〔。同日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、ついに天皇の裁断によって、外相案すなわち天皇の地位の保障だけを条件につけることが決定された〔。翌8月10日に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾する日本の申し入れが、ラジオと中立国を介して行われた〔。これに対して、アメリカ国務長官ジェームズ・F・バーンズからのいわゆる「バーンズ回答」において、「降伏のときより天皇および日本国政府の国家統治の権限は(中略)連合国最高指揮官に従属するものとす。最終の日本の統治形態は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定せらるべきものとす」との回答を通告してきた〔遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書240ページ〕。8月12日この回答を知った軍部や平沼枢密院議長は、これでは国体護持の保障はないとし、再照会と、もしそれでも保障が得られないときは戦争を継続すべきことを主張した〔。対立が再び蒸し返され、天皇は動揺した〔。しかしこのとき、連合軍の回答にもられたアメリカの真意は、暗に日本の申し入れを認めたものがというアメリカの新聞情報がはいり、受諾論が盛り返した〔。8月14日、再度の御前会議で、天皇の決定によって無条件降伏が決まった〔。もはや戦争の将来には一縷の望みもない段階にありながら「国体護持」をめぐってこれだけ紛糾したのは、天皇の地位の保持がいかに戦争指導部(政府中枢)にとって重要であったかということを示す〔。そしてこの1週間の間にも、空襲はつづいており被害は増えていった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日本の降伏」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Surrender of Japan 」があります。



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