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日本教育史(にほんきょういくし)では、古代から現代までの日本の教育のあり方とその歴史、教育観、教材、制度などの変遷を掲載する。教育学の一般的な教養の一つの部門でもある。 == 変遷 == === 奈良時代から平安時代まで === 古代日本の教育について、多く知られているとはいえない。しかし、山上憶良の「貧窮問答歌」などにも見られるように、親が子を思い、そのために何かをしてやりたいという気持ちは時代が違っていても変わることはなかったようで、資料の残っている以前から、親や大人たちが子どもや若者が1人前になっていく上で、何かの手助けや指導をしていたことは想像に難くない。 施政にあたる人物で、日本史上最も早く教育に関心を示したといわれるのは、、飛鳥時代の政治家、聖徳太子(574年-622年)である。厩戸(うまやど)皇子・上宮(うえのみや)王・豊聡耳(とよとみみ)などともいう。 理想主義的な哲人政治を志向したが、書物としての教育論は残していない。 冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使(小野妹子)の派遣、四天王寺、法隆寺などの建立などが主だった業績である。経典を研究し「三経義疏」という注釈書を書いたが、これに彼の教育思想、「一乗思想」が色濃く反映されている。つまり、すべての人に等しく教育を説き、理想の実現と人間平等の考え方である。教育についての日本では初めて思想として提起されたものになる。 最初の教育の制度というのは、大宝律令(701年)による教育制度の確立である。これが、日本で最初の成文化された教育の制度になる。この骨格は中国唐の国子監制度から持ちこまれたものである。 その仕組みは、大学寮が中央(都)に一つ設けられた。式部省の所管で、明経道(経書)、算道(算術)および副教科の音道(中国語の発音)、書道(書き方)の四学科があり後に紀伝道(通称「文章道」、中国史・文章)と明法道(法律)が加わった。これらの「明」は、それについて「明るい」(ことの次第によく通じた)という意味である。 その他にも、専門的な技術者養成機関としては典薬寮、陰陽寮、雅楽寮などがあった。これらでは医、薬、針、按摩、陰陽、天文占術、暦、雅楽などを教授した。 当時の学生は、大半は大学寮内に寄宿しており、代表的なものとして菅原清公(菅原道真の祖父)が設立して菅原氏・大江氏の管理下にあったとされる文章院がある。これに対して有力な氏族は大学別曹のような特別な寮舎(りょうしゃ)を設けて、一族の師弟をそこに収容した。これらは独立性を持ち、寄宿舎で、同時に研究所的な性格を持っていた。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、王氏の奨学院など。大学寮という公的機関を巡る氏族対立の副産物のような存在で、貴族政治の台頭を背景としていた。また、菅原氏などの学者が公務以外に私邸などを使って門人を教育するなど、私立学校の萌芽のようなものもこの時代から現れるようになる。 だが、平安時代後期から官司請負制のもとで官職の世襲化が進み、大学寮の教官も特定の氏族の世襲となって、教官たちは世襲の存続のために自己の子弟・一族や限られた門人に対してのみ限定して、大学寮外の自宅などで教授するという家学化が進んだ。更に1177年の大火で大学寮や文章院が焼失すると、再建されることなく放置され、公的教育機関としての大学寮は消滅することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本教育史」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 History of education in Japan 」があります。 スポンサード リンク
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