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日本の気動車史 : ウィキペディア日本語版
日本の気動車史[にほんのきどうしゃし]

日本の気動車史(にほんのきどうしゃし)では、日本における気動車発達過程の概略を記述する。
== 戦前期 ==

=== 蒸気動車 ===

その歴史の初期には、蒸気機関を装備した「蒸気動車」が存在し、日本でも1900年代から第二次世界大戦中まで若干が用いられていた。床上の一端に小型ボイラーを装備、この側の台車にシリンダーを取り付けて駆動するものである。
日本で明確に導入された最初の例はフランス製の「セルポレー式自動客車」である。早くも1899年に日本に持ちこまれて、同年7月以降東京馬車鉄道での構内試運転が行われた記録がある。これを導入しようと目論んだ事例も幾つかあったがほとんどが頓挫した。
セルポレー式蒸気動車を実用導入した最初にして唯一の例は、1905年の瀬戸自動鉄道(後の瀬戸電気鉄道、現名古屋鉄道瀬戸線)であった。この小型車は4輪車で、セルポレーの特許による高性能なフラッシュボイラーを搭載していたが、当時の日本の技術では構造が複雑で使いこなせず、整備困難で、故障も多発した。本来市内の軌道線向けの車両であり、郊外路線で勾配の多い瀬戸線の路線条件にも合わなかった。発車前に給炭しておけば終点まで燃料補給不要とされたが、実際に運用すると途中で燃料切れにより立ち往生することもあった。このように実用上問題が多かった蒸気動車はほどなく放擲され、同線は1907年には電化された。瀬戸電気鉄道での蒸気動車運用記録は1911年が最後である。
続いて1907年にはハンガリーガンツ社の設計になる大型のガンツ式蒸気動車が関西鉄道に2両導入され、鉄道国有化に伴ってこれを買収した国鉄で使われたほか、1909年までに近江鉄道(2両)、河南鉄道(現・近畿日本鉄道道明寺線長野線など、1両)〔範多商会広告『日本工業要鑑. 第5版(明治45、46年)』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕、博多湾鉄道(現・九州旅客鉄道香椎線、2両)に導入された。これらは機関と駆動装置部分のみを輸入し、車体は日本国内で製造された〔関西鉄道車は自社四日市工場、その他3社は大阪鐵工所で製造。〕。
ガンツ式は18気圧という高圧の水管式ボイラーを縦型に配置し、ロッドや弁装置を持たず、単式・複式切り替え構造を併設した歯車式の駆動装置によって駆動するなど、複雑精緻な構造を備えていた。このため本来は高性能であったが、当時の日本の技術水準では整備に難渋して使いこなせず、普及することなく終わった〔18気圧は日本の蒸気動力鉄道車両としては史上最高クラスで、蒸気機関車での実用例である1930年代以降の16気圧をも上回る。明治末の日本の蒸気機関車は12気圧程度がせいぜいであった。日本の鉄道においては、宮原二郎によって開発され帝国海軍の艦船用標準ボイラー(艦本式水管式ボイラー)の基本となった宮原式水管式ボイラーを鉄道車両に搭載する試みが一部で見られたが、これは結局大成せず、少なくとも動力用としては水管式ボイラーを使いこなすことはできなかった。〕。
一方、比較的普及したのは工藤式蒸気動車であった。汽車製造の設計掛長であった工藤兵次郎が1909年に開発し、翌年特許取得したもので、小型のB型蒸気機関車のボイラと台枠の間にボルスタを設け、ここに車体側台枠と連結される側梁を載せることで曲線通過時に車体に対して機関車部分がボギー式台車のように首を振る構造であった。
この着想やレイアウトのほとんどは、実際にはイギリスのロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道が1905年に開発した蒸気動車からの剽窃であった。機関車部は整備時にはボルスタピンを抜き、車体と切り離し前面の開き戸から引き抜くことが可能で、蒸気動車の末期にはこの機関車部だけを抜き出して独立した蒸気機関車に改造する例も見られた。工藤式蒸気動車は、ガンツ式ほど性能は高くなく、ボイラー圧力も当時の一般的な蒸気機関車並の11気圧程度であったが、信頼性と扱いやすさの面で当時の日本では適していた。
工藤式蒸気動車の最初の導入例は奈良県の初瀬軌道で、この蒸気動車は同線の廃線後、北海道の余市臨港軌道からさらに小湊鐵道に譲渡、客車化されながら1952年まで残存していた。
工藤式は、鉄道院には1912年から1914年にかけて18両が導入され、その他にも外地の鉄道を含めて1920年頃までに少なからぬ導入例がある。既にガンツ式導入経験のあった河南鉄道のほか、三河鉄道(現・名鉄三河線)、湖南鉄道(現・近江鉄道八日市線)、播州鉄道(現・西日本旅客鉄道加古川線)などが少数導入し、また台湾総督府鉄道も5両を導入している。製造の多くは汽車製造によるが、工藤兵次郎の汽車製造からの退社により、汽車製造以外に川崎造船所(現・川崎重工業)や枝光鐵工所など、大手・中小での製造例も少数生じた。なお、鉄道院に導入されたうちの1両が明治村からJR東海名古屋工場を経て、2011年よりリニア・鉄道館で保存展示されている。
これらは蒸気機関車同様に石炭を燃料とし、機関助手の乗務を要した〔セルポレー式は小型ボイラーで必要な火力を確保するため、燃料として高カロリーであるが高価なコークスの使用が必須であり、これも早期淘汰の原因の一つとなった。〕。ガンツ式や工藤式については両側運転台で、機関室と逆側の方向へ走行する場合、先頭側運転台の機関士はワイヤーと伝声管を介して後部機関室の助士に指示を与え、走行していた。
このように取り扱いに手間がかかることから、より運用が簡便で高効率な内燃機関を動力とする内燃動車が出現したことに伴って、大正時代末期以後に蒸気動車は廃れ、大半は機関部を撤去して客車化されていった。
しかし、国鉄・私鉄の保有した工藤式蒸気動車の一部は、1930年代後期以降の戦時体制による燃料統制期に至っても自走可能な状態で温存されていた。その結果、内燃動車が1930年代末期以降に石油燃料・補修部品の入手困難から事実上使用不能に追い込まれると、残存した蒸気動車はこれに代わって各社でフル稼働し、終戦直後の窮乏期にかけて、老朽車としては異例の走行キロ数を記録した。原始的な機構と、燃料が蒸気機関車同様の石炭であることとが幸いし、物資不足の戦時下でも維持・運行することができたのである。鉄道省から一部地方私鉄に貸し出された車両については、老朽車であったにもかかわらず、貸出先各社から払い下げを再三に渡って懇願されるほどの高評価を得たという〔一例として、在籍気動車の代燃車への改造中の不足を補うべくキハ6400形を借り入れた国東鉄道が、その後再三に渡って鉄道省に対し蒸気動車の払い下げ申請を提出したことなどが挙げられる。〕。ただし、この動きはあくまで旧型車の活用にとどまり、この時期に敢えて蒸気動車が新造されるまでには至らなかった。
なお、「気動車」の語源はこの「蒸気動車」の省略形である。そこから転じて、熱機関動力の自走客車全般の呼称となった。ただし前述の関西鉄道の場合は動車と略していたとされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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