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日本ヌーヴェルヴァーグ(にっぽんヌーヴェルヴァーグ、日本ヌーベルバーグとも、英語The Japanese New Wave)は、1950年代末から1970年代初頭に出現した日本の映画監督などからおこった、日本映画の内部におけるムーヴメントである。1980年代以降の影響についても言及する。 == 概要 == フランスのヌーヴェルヴァーグとは違い、日本のムーヴメントは当初、撮影所の内部で始まった。若く、それまではほとんど知られていない映画作家たちによるものである。「日本ヌーヴェルヴァーグ」の語は、ヌーヴェルヴァーグの日本版として撮影所の内部で(そしてメディアで)最初につくりだされた〔Sato, p. 213-215 and Richie, p. 196〕。それにもかかわらず、「日本ヌーヴェルヴァーグ」の映画作家たちは、フランスの同僚たちをインスパイアしたのと同じ国際的影響を受けており、その語が定着するにつれ、人工的に見えたムーヴメントが批評的になり、ますますインディペンデントな映画運動に急速に発展し始めた。 フランスのムーヴメントのすぐれたところは、そのルーツが『カイエ・デュ・シネマ』誌とともにあることである。多くの未来の映画作家たちが、自らのキャリアを批評家としてそして映画を脱構築する者として始め、新種の映画理論(film theory、もっとも顕著なものは作家理論である)が彼らとともに出現したということが明らかになるのである。 一方、日本のムーヴメントは、ラフにいえばフランスと同時に発展した(いくつかの重要な先駆的作品は1950年代に生まれている)が、社会的な慣例に疑問を抱き、分析し、批評し、ときには慣例を揺るがすことに捧げられたムーヴメントとして起こっている。 フランスの同僚たちに近いバックグラウンドから起こった日本の映画作家が大島渚であった。彼は撮影所に採用される以前は左翼活動家であったし、分析的映画批評家であった。大島の最初期の作品(1959年 - 1960年)は、初期に出版した分析で声に出した意見の直接の結果としてみることができる〔Sato (p. 213) & Oshima (''Cinema Censorship and the State: The Writings of Nagisa Oshima'', 1993, M.I.T. Press)〕。大島の記念碑的第二作(1959年 - 1960年の二年間に4本監督している)である『青春残酷物語 ''Cruel Story of Youth''』は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』のめざめのなかでかなりすみやかに国際的にリリースされたようにみえた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本ヌーヴェルヴァーグ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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