翻訳と辞書
Words near each other
・ 日本プロフェッショナルダンス競技連盟
・ 日本プロフェッショナルボディボーディング連盟
・ 日本プロフェッショナル野球協約
・ 日本プロフェッショナル野球組織
・ 日本プロボウリング協会
・ 日本プロボクシング協会
・ 日本プロポケットビリヤード連盟
・ 日本プロムエタイコミッション
・ 日本プロレス
・ 日本プロレスリング中継
日本プロレス中継
・ 日本プロレス協会
・ 日本プロレス選手権特集
・ 日本プロレタリア作家同盟
・ 日本プロレタリア文化連盟
・ 日本プロレタリア文芸連盟
・ 日本プロレタリア映画同盟
・ 日本プロレタリア科学同盟
・ 日本プロレタリア芸術連盟
・ 日本プロ野球


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

日本プロレス中継 : ウィキペディア日本語版
日本プロレス中継[にほんぷろれすちゅうけい]

日本プロレス中継(にほんぷろれすちゅうけい、代表的な旧題は「三菱ダイヤモンドアワー プロレスリング中継」)は、1954年2月19日から1972年7月14日まで、日本テレビ放送網(日本テレビ)が制作・放映していたプロレス中継番組。日本プロレスの試合を中継していた。
タイトルや放送形態は時期によって変わっており、1957年7月からは三菱電機一社提供(末期は複数社提供)で放送された。
== 歴史 ==

=== 創成期 ===

* 1954年2月19日に、この日より3日間にわたって蔵前国技館で行われた、日本プロレス協会の旗揚げ戦を 『力道山木村政彦シャープ兄弟プロレス実況』としてNHKテレビと並行して19:30 - 21:00に生中継で放送〔『日本プロレス事件史 Vol.2』、P36 - P37〕。
: これが日本テレビの初の中継となった。以後、不定期にプロレス中継を放送する。
: 当初は定期的な中継枠は作らず、主要な試合のみを、特別に枠を設けて生中継を行うスタイルだった。提供スポンサーもその都度変わっていた。
: (上記に先駆けて、1954年2月16日の19:45 - 20:15には、『プロ・レスリングの見どころ』という番組を放送した。当時のテレビ欄には「解説・伊集院浩、実演・木村政彦、力道山」〔原文まま〕とあり、「プロレス映画を上映し、力道山、木村選手らによる解説を行った」と社史にはある)
* 1954年12月22日、昭和の巌流島と言われる力道山VS木村政彦を、NHKテレビと並行放送で生中継〔。
* 1956年7月23日、この日行われた蔵前国技館大会を、日本テレビ・KRテレビ(現:TBSテレビ)・NHKテレビの3局で生中継〔。
* 1957年2月15日、力道山はルー・テーズを招聘した上で、NWA世界ヘビー選手権を日本で開催すべく渡米し、正式契約を交わし同年5月16日に帰国。日本テレビとKRテレビとの間でテーズVS力道山とのNWA世界ヘビー選手権における主催や放映権を巡って争奪戦となったが(KRテレビは八欧電機〈現:富士通ゼネラル〉がスポンサーに付いていた)、最終的に力道山は日本テレビを選択し、KRテレビ並びに八欧電機とは絶縁〔『日本プロレス事件史 Vol.2』、P38 - P39〕。
* 1957年6月15日から、日本テレビのみで『プロレス・ファイトメン・アワー』のタイトルで、週1回の定期番組を開始。
: 土曜日17時台からの1時間枠で、若手選手の育成と、スポーツとしてのプロレスの人気の高揚をはかることを目的とした。従って主に放映されたのは、東京・日本橋浪花町の日本プロレス・センターで行われる、若手選手の試合や、力道山の「練習試合」などであった。
: この『ファイトメン・アワー』は当初、諸般の事情で提供なしで始まったが、同年7月第3週から三菱電機がスポンサーに付いた。
: ただし、タイトル戦などの主要な試合は相変わらず、特別枠を設けての放映という形をとった。折から各地に民放テレビが開局し始め、この特別枠の中継を同時ネットする地方局も出始めた。
* 1957年10月7日、ルー・テーズVS力道山とのNWA世界ヘビー選手権試合を後楽園球場から中継。視聴率は87.0%(電通調べ)を記録する。放送に関しては、当日夕方に急遽決定したという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日本プロレス中継」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.