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日本共同証券(にほんきょうどうしょうけん)は、1964年1月20日に資本金25億円〔および金融機関の協調融資100億円〕 で発足した株式棚上げ機関である。証券不況で供給過剰だった株式を買い上げるために設立された。出資者は当初、都市銀行12行、長期信用銀行2行、証券会社4社だったが、同年11月以降は、都市銀行14行、長期信用銀行4行、信託銀行7行、地方銀行56行、証券会社16社、保険会社40社となった。日本銀行やその他都市銀行からの融資総額は1,800億円ともいわれた。株式市場の回復後の1971年に解散された。 == 設立まで == 当時、日経ダウ平均は1,200円の大台を割り込みそうになっていた〔これは池田勇人首相がこだわっていたボーダーであった。〕。銀行は株を買い支えて株価を維持しようと考えていた。保有株式の担保価値が下落したら資産内容が悪くなるからであった。加えて長期信用銀行、特に日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本不動産銀行を中心に発行されていた金融債は、証券会社を介し顧客に売られてなお引き渡されず(運用預かり)、証券会社がインターバンク市場から資金調達する際の担保に利用されていた。この長信三行は、金融債が証券不況の原因と市場に論じられてイメージダウンすることを恐れた。 公になることによるシステミック・リスク〔坂野常和の坂野通達発表直後は株価の大幅下落を記録していた。〕を避けるため、中山素平興銀頭取〔伊藤謙二元興銀総裁に意見を求めていた。戦前にも同目的で日本共同証券は設立されていたのだが、その設立に伊藤は参加の経験があった。〕、宇佐美洵三菱銀行頭取、岩佐凱実富士銀行頭取、加治木俊道大蔵省証券部長、佐々木直日銀副総裁は、日本共同証券の青写真を描くために密談を重ねた。結果として、証券局内部でさえほとんど議論らしい議論は行われず、田中角栄大蔵大臣、池田勇人首相にも、設立が揺るぎない段階になってから報告された。証券業界と正式な会合が行われたのは1963年10月9日になってからである。ただ、ここでは格別の反対はなかったという。後に大口の出資者となった都市銀行への説明は、日本共同証券設立翌年の1965年1月10日に遅れて行われた。しかもこれは中山が説明対象を関東系の都銀に限った。 すでに証券不況の深化に伴い大手銀行から各証券会社へ人材が派遣されていたこともあって、上述のような寡頭政治は銀行による証券支配を促進していると証券業界から非難された。証券業界は結局、日本共同証券の業務範囲が制限されることを条件に折り合った。制限内容はブローカー業務や社債業務ができないなど、趣旨としては株式の買い入れに特化するというものであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本共同証券」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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