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日本出版配給株式会社(にほんしゅっぱんはいきゅう、)は、太平洋戦争(大東亜戦争)の前後を通じ、日本の出版取次を独占していた国策会社である。略称は日配(にっぱい)。 == 概要 == 日本出版配給が創立される以前、出版取次は四大雑誌取次(東京堂・東海堂・北隆館・大東館)の他、書籍取次や中小取次も合わせ全国に200社以上が存在していた。 1940年(昭和15年)、日本政府は情報局指導の下、日本出版文化協会(文協)及び洋紙共販株式会社を創立して出版物の統制を行うようになった。次いで1941年(昭和16年)5月5日、全国の出版物取次業者240社あまりを強制的に統合した一元的配給会社として「日本出版配給株式会社」が設立された。資本金は1000万円。商工省及び情報局の指導監督、日本出版文化協会の配給指導の下、「日本文化の建設、国防国家の確立」をモットーに、出版社(文協会員)が発行する全書籍雑誌の一元的配給を担った〔「ヨイ本を安く早く : 日本出版配給會社うぶ聲 : 全國の取次店は全部解消 」、大阪毎日新聞、1941年5月6日(神戸大学図書館デジタルアーカイブ)〕。 型式上は株式会社で、本社(本店)は東京市神田区淡路町〔1943年(昭和18年)7月1日の東京都制(昭和18年法律89号)施行に伴い、東京都神田区淡路町二丁目九番地へ変更。〕の大東館に設置、支店は内地では大阪支店、名古屋支店、九州支店(福岡市)、外地では朝鮮支店(京城府)、台湾支店(台北市)が設置された。この他に九段、駿河台、錦町等に営業所を設置した。取締役社長には有斐閣店主・江草重忠が就任、役員も旧取次の店主等が横すべりで就任し、一見民営のように見えるが、役員の選任や重要事項の決定には監督官庁(商工省・情報局)の承認が必要とされるなど、実質的には政府の統制下に置かれていた。 当時の出版物は、情報局による指導監督の下、日本出版文化協会(文協)が文協会員である出版社に対して出版指導を行っており、出版社の発行届及び企画届を基に発行承認・不承認を通知した。発行承認されないと出版社及び洋紙共販に対して用紙割当通知が届かず、出版社は洋紙共販傘下の各元受用紙店や各用紙店から印刷用紙が購入できなかった。また、情報局による検閲を受けた後(日本における検閲も参照)、奥付に配給元である日配と出版社の住所を明記しなければ日配は配本しないと定められ、日配は言論統制のための一翼を担った。 1943年(昭和18年)6月4日、日本出版会(日本出版文化協会から改組)の配給部長だった石川武美(元主婦之友社取締役社長)が社長に就任、1944年(昭和19年)6月19日には農商大臣の内田信也から「統制会社ト為ルベシ」の命令が下り〔農商省指令19繊第3266号〕、9月1日に統制会社令(昭和18年勅令第784号)第3條第2項の規定に基づき「日本出版配給統制株式会社」を設立、引き続き石川武美が社長に就任した。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)10月1日、商事会社に復帰して社名を日本出版配給株式会社に戻したが、GHQが経済民主化を進める中、1949年(昭和24年)3月29日に閉鎖機関指定〔「日本出版配給株式会社を閉鎖機関に指定等」(昭和24年3月29日大蔵省・商工省告示第5号)、『官報』第6660号、1949年3月29日〕を受けて活動を停止した。出版取次を一手に担ってきた日配の突然の活動停止は出版社を苦境に陥れ、この時多数が倒産している。この事態を受けて同年9月、10月に日配を母体とした取次会社が相次いで創業し、そのうちのいくつかは2015年(平成27年)現在も大手取次として存続している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本出版配給」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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