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日本学生会議 : ウィキペディア日本語版
日本学生会議

日本学生会議(にっぽんがくせいかいぎ、英語:Japan Student Conference)は、日本民族派学生組織。略称はJASCOジャスコ)。機関紙は『無窮』(1968年『ジャスコ』創刊、1972年に改題、現在は廃刊)〔猪野(1990年)〕。反核拡散防止条約闘争(反核防闘争)を担った主要組織。
== 概要 ==
頭山満の三男頭山秀三の指導を受けた豊田一夫が、1952年5月に愛国青年有志委員会を結成し、その行動隊として殉国青年隊を組織した。7月に頭山が交通事故で急死すると、9月に殉国青年隊を独立させ、愛国青年有志委員会は翌年9月に解散した。1954年1月、殉国青年隊(1960年4月、日本青年連盟に改称)の学生組織として全学生運動純正会が結成され、 1960年5月20日、日本学生会議に改称した〔堀、p.274-275〕。
1967年早稲田大学山浦嘉久が議長となり、民族主義YP体制打破を打ち出して新右翼化した〔。「右からの革命」を志向していたとされ、「右翼の赤軍派」と仇名されることもあった〔千坂(2015年)、p.73-74〕〔〕。
早稲田大学支部は「昭和維新派」として早大全共闘に参加し、「民族派全共闘」「民族派全学連」ともいわれた〔〔。
1969年11月14日、山浦議長などメンバー8人が核拡散防止条約に反対して外務省国際連合局軍縮室に乱入し、1971年12月には全国学協日学同統一派などと「反核防統一戦線」を結成した〔堀、p.86-87〕。また1975年2月には全国学協、一水会などと「反核防青年シムポジウム実行委員会」を組織し、「一日共闘」を実現して集会や抗議行動を行った〔猪野(2005年)、p.93〕。
1970年代前半の反核防闘争においては、牛嶋大輝編集局長(牛嶋徳太朗)が代表となり外務省に対する批判声明を読み上げた〔『東大陸』、p.12-13〕。牛嶋は当時からファシストであり、機関紙上でナチズムイタリアファシズムについて論じていた〔『東大陸』、p.15-16〕〔01 | 彩流社 〕。参加した右翼民族派学生(主にJASCO・全国学協・日学同統一派の三派、青年民族派・新民族派などと自称)は、三上卓作詞の「青年日本の歌」(昭和維新の歌)を集会歌とし、日章旗と黒旗を掲げ、黒ヘル姿で大規模なデモを行った〔〔千坂恭二 〕。右翼民族派にとっての反核防闘争は、 新左翼反安保闘争に匹敵するものだったとされる〔〔。現在の活動は確認されていない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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