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日本専売公社小田原工場専用線(にっぽんせんばいこうしゃおだわらこうじょうせんようせん)は、神奈川県小田原市多古(当時)の小田急電鉄(小田急)小田原線足柄駅から、神奈川県小田原市久野の日本専売公社(当時)小田原工場に至る区間を結んでいた、日本専売公社運営の専用鉄道である。 日本専売公社小田原工場で製造されるタバコの原料搬入や製品搬出のために敷設された専用鉄道で、1950年から輸送を開始したが、トラック輸送への移行により1984年3月に廃止された。 == 沿革 == 1948年に神奈川県小田原市久野に東京地方専売局小田原煙草分工場(当時)が建設され〔、同年6月から操業を開始した〔。当初、この工場への原料搬入や製品の搬出については、全てトラックによる輸送に頼っていた〔。しかし、工場に至る道路が狭隘であったことから効率が悪く、運送経費も高くつくものとなっていた〔当時は、たとえ2軸貨車が1日あたり10両程度の輸送量であっても、鉄道輸送の方がコスト上有利であった(『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.150)。〕。また、工場自体も建設途上であった〔ため、資材輸送においても同様の問題が発生していた。そこで、製品の搬入・搬出および建設資材の搬入のため〔、近隣を通っている小田急小田原線の足柄駅から専用線を敷設し、円滑な輸送体制の構築と経費節減を図ることになった〔。 当時の日本は第二次世界大戦敗戦後の連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) による占領下にあり、まずGHQの一機関である民間運輸局 (CTS) から建設認可を得て〔、その後に1949年10月21日に運輸省に対して免許の申請を行い〔、同年12月26日に免許された〔。また、当時は車両の新製についても割当枠が存在した〔ため、専用線で運行する機関車については同年4月12日付で三井鉱山に割り当てられた車両製造枠を活用し、書類上は三井鉱山の発注した電気機関車を日本専売公社が譲受して使用することになった〔。 運輸営業開始は、1950年3月25日とされている〔。しかし、小田急の保有する機関車の乗り入れについては同年5月18日の認可となっており〔、貨車の直通運転についても認可は同年5月20日付けとなっている〔ことから、実際に運輸を開始したのは1950年度に入ってからとみられている〔。 当初より輸送量は多く、1956年以降には足柄駅構内に貨車を収容するための側線が増設された〔1956年11月1日発行の運転取扱心得にはまだこの側線は掲載されていなかった(『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.103)という記述がみられるため、本項ではこのように表記。〕が、最盛期にはそれでも収容しきれず〔、小田原駅でも収容しきれなかったために日本国有鉄道(国鉄)の西湘貨物駅に貨車を留置させていたほどであったという〔。1958年からは運転業務全般を小田急に委託した〔。 しかし、その後鉄道による貨物輸送は斜陽化し〔、道路整備も進んだことから徐々にトラック輸送に置き換えられることになった〔。末期には、製品の搬出についてはトラックで輸送し〔、原料の搬入にのみ鉄道を使用していた〔。 1984年2月1日のダイヤ改正によって、国鉄の貨物拠点駅から小田原駅が外されることになり〔、1日3往復運行されていた貨物輸送についても同日付で廃止されることになった〔。廃止直前の同年1月23日には「お別れ式」も行われた〔。同年3月に専用鉄道自体も廃止され〔〔廃止の日付は文献からは確認できなかった。〕、小田急の定期貨物輸送も全廃となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本専売公社小田原工場専用線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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