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日本拳法(にっぽんけんぽう、にほんけんぽう)は、防具(面・胴・股当その他)とグローブを着用して殴打技、蹴り技、関節技を駆使して勝敗を競い合う競技武道。日拳(にっけん、にちけん)と略されたり、単純に拳法と呼ばれることがある。 1932年(昭和7年)に柔道家で、空手家の摩文仁賢和に一時師事していた〔「実戦の”拳法”澤山宗海――日本拳法創始者――」、加来耕三『武闘伝』223頁参照。〕澤山宗海(さわやまむねおみ)により創始考案され、澤山が立ち上げた日本拳法会を基に複数の流派・団体が存在しており、ルールも各々で違いがある。 後述のように創始当初から大学のサークル活動を中心に普及が進められ、ボクシング・キックボクシング等の格闘技にも多数の選手を輩出している。 == 概要 == 日本拳法の起源については、開祖の澤山宗海(本名・勝)自身、その著書でその詳細を語っていないので種々の説が流布しているが、当時の事情を知る関係者の証言や当時の関係資料によると概ね以下の通りである。 澤山は元来「当身」の技に興味があり、関西大学学生だった昭和初期の頃、いくつかの古流柔術を見て回ったが納得するものがなかった〔加来耕三『武闘伝』毎日新聞社、1996年、222頁参照。〕。そこで、当時沖縄から大阪に転居して唐手(現・空手)を教え始めていた摩文仁賢和(糸東流開祖)とその友人の宮城長順(剛柔流開祖)を関西大学に招聘して、1930年(昭和5年)6月15日、唐手研究会を設立した〔加来耕三『武闘伝』毎日新聞社、1996年、225頁参照。1929年(昭和4年)に設立したとする文献もある。森良之祐『絵説・日本拳法』東京書店、1998年、48頁参照。〕。澤山の唐手の師匠について、後年弟子の森良之祐が摩文仁・宮城両人と親しくつきあいのあった小西康裕に質問したところ、摩文仁には師事したが宮城とは関係がなかったという〔森良之祐『絵説・日本拳法』東京書店、1998年、48頁参照。〕。おそらく大阪に転居した摩文仁と違って、沖縄在住で一時的に関西を訪問した宮城長順にはそれほど師事する期間はなかったものと思われる。ただし宮城長順が1934年(昭和9年)に著した『唐手道概説』には、沖縄県外で活躍する「唐手指導に携る者」として「澤山勝」の名が明記されている〔高宮城繁 ・仲本政博・ 新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、732頁参照。〕。 唐手を習い始めたものの、稽古の大半は形稽古であり、自由な打ち合いに興味を抱く澤山は次第に唐手に興味を失っていった。そこで、澤山は大阪府吹田市にある垂水神社の境内で同門たちと自由に打ち合う組手稽古をはじめた。この神社が日本拳法の発祥地である。そして、1932年(昭和7年)、関西大学法学部を卒業すると、同年秋、同門たちと「大日本拳法」と称する唐手とは別の武道を正式に起ち上げた。ただし、当時摩文仁も糸東流を名乗る以前で「大日本拳法関西空手術研究会」という類似の名称の団体を名乗っており〔仲宗根源和編『空手研究』空手研究社、1934年、68頁参照。〕、摩文仁側から見てどの程度この「独立」が認識されていたのかは判然としない。上述の宮城長順『唐手道概説』(昭和9年)には、まだ唐手指導者と記されている。その後、1934年(昭和9年)には防具着装による稽古を開始した〔加来耕三『武闘伝』毎日新聞社、1996年、231頁参照。〕。 澤山は自身の母校である関西大学と吹田市を拠点に日本拳法会を開き、当初から大学体育会を対象に普及がなされた。関東進出を任された弟子の森良之祐は上京直後(昭和28年頃)に一時除名されたが、その後一転して「右ニ東京ニ於ケル拳法ヲ一任ス 日本拳法宗家澤山宗海」となったことから、日本拳法協会を設立して関東方面での普及活動を開始したという〔森良之祐『絵説・日本拳法』東京書店、1998年、49頁参照。〕。その後、その協会から分裂して連盟が生まれた。関東では立正大学が東日本の大学で最初の日本拳法クラブとして創部され、以降徐々に広がりを見せる。 運営団体の特徴として大学における連携組織の充実があり体術及び練習法の体系化、指導者層の育成を見越していた点が評価される。他の打撃系団体もこれを模倣する組織が多い。澤山が日本拳法創始時、関西大学の学生と研究したことから同大では現在でも「学技」としており強豪である。その後、国士舘大学や明治大学が関西圏の選手を引き抜くようになり、高校で実績を残した選手は関東の大学に引き抜かれる場合が多い。他に中央大学、龍谷大学、大阪商業大学、早稲田大学、関西学院大学なども強豪として挙げられる。一方で、いわゆるセレクションによる男子選手の受け入れを行っていない同志社大学も前述の大学に健闘している。 すべて大正以降の出来事だが、総合格闘技ムーヴメントより遙か前から多種類の技を駆使する直接打撃制の歴史を重ねてきている。その即用性の高さから、協会の拳法は自衛隊の教練にも取り入れられ、森良之祐が自衛隊徒手格闘制定に参画したことから、自衛隊徒手格闘は協会拳法と柔道と富木流合気道をベースに作られた。また、森は警察大学校の講師でもあったため警察の逮捕術にも大きな影響をあたえている。全国の大学にクラブがあり、その出身者たちの活躍も発展の素地となっている。 松永俊治は1962年から1970年まで全日本拳法個人選手権を9連覇した後に1975年にも優勝し、連覇記録、通算優勝回数とも歴代最多記録を保持している。また、雑古哲夫は合計で49回の優勝を重ね、海外での指導も行い日本拳法を国外へ広めるのに一役買っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本拳法」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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