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日本放送映画 : ウィキペディア日本語版
日本テレビ動画[にっぽんてれびどうが]
日本テレビ動画(にっぽんテレビどうが、1971年11月設立 - 1973年9月30日解散)は、かつて存在していたアニメ制作プロダクション。本項ではその前身にあたる日放映動画スタジオ(1966年〔ただし、母体となった日本放送映画社の中にアニメ制作部門が発足したのは後述の通り1965年である。〕 - 1968年)及び、東京テレビ動画(1968年 - 1971年)についても記す。
== 概要 ==
代表作に『男一匹ガキ大将』をはじめとした日本テレビ系平日夕方放送の帯アニメ、『ドラえもん』(第1作)等があり、下記の通り前身会社が設立当時日本テレビと専属契約を結んでいたためか同社との関係が深かったが、資本関係はなかった模様。社名も「日本テレビ」+「動画」ではなく実際は「日本」+「テレビ動画」を意味していた。
ルーツは「国映株式会社」という教育映画ピンク映画を製作していたプロダクションが、1965年頃に同社のテレビ製作部門だった日本放送映画の中に、日本テレビ専属のアニメ制作部門を立ち上げたことが始まりである〔安藤、2008年、p.66 - 67〕。1966年にはこのアニメ制作部門は日本放送映画の関連会社である有限会社日放映動画スタジオとして独立した〔。中心人物は、東京ムービー出身の岡崎光輝と渡邊清(別名、新倉雅美)だった〔。しかし、『冒険少年シャダー』で納品数が不足するトラブルを起こしたことがあり、それがきっかけで新たに渡邊が東京テレビ動画狛江市に立ち上げたという〔。
東京テレビ動画は引き続き日本テレビ製作のアニメを独占した〔安藤、2008年、pp.68 - 69〕。当時東京テレビ動画は専属のアニメーターを置かず、外部のスタジオ等と契約して制作していたという〔。フリーの演出家だった富野喜幸(現・富野由悠季)は当社制作の『夕やけ番長』で監督デビューを果たしている〔安藤、2008年、pp.85 - 86〕。『赤き血のイレブン』の監督を務めた岡迫亘弘は、「新倉(引用者注:代表取締役の新倉雅美=渡邊清)は金払いが悪いことで有名だったから、有名な人やベテランは寄りつかない。だからこそ、逆に新人が活躍できたんだろうね」と述べている〔安藤、2008年、p.87〕。1971年には新潟市にもスタジオを開設するが、日本テレビと東京テレビ動画の間に金銭的な不祥事が起こったとされ(岡迫の証言では、日本テレビの藤井賢祐が渡邊の贈与の見返りに発注していたことが日本テレビに発覚したためという)、東京テレビ動画は1971年春以降日本テレビから仕事を干されてまう〔安藤、2008年、pp.70 - 73〕。代表取締役である渡邊は映画配給会社の契約未定のまま映画製作に乗り出し、谷岡ヤスジ原作の劇場アニメ形式のアダルトアニメヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』を社運を賭けて制作、上映するが、興行は大失敗に終わる〔。
そして、新潟スタジオを拠点として1971年11月に再々度立ち上げられた会社が日本テレビ動画である〔。代表取締役の稲庭左武郎は新潟総合テレビの役員〔安藤、2008年、p.56〕、また渡邊自身も新潟県出身で田中角栄とつながりがあったという報道もあり〔安藤、2008年、p80〕、新潟の政財界と関係があったとされる。吉川惣司は稲庭が「お金を出すだけ」の出資者であったと述べている〔安藤、2008年、p.75 - 76。吉川は稲庭を「会長」、渡邊を「社長兼プロデューサー」と呼んでいる。〕。
1972年4月にTBS系列で放映を開始した『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』を制作してテレビアニメに復帰し、同時に制作の利便のために東京都中野区にもスタジオを設置した〔。だが、後番組の『モンシェリCoCo』は放映途中でクレジットからプロデューサーの渡邊の名前が消えた上、わずか1クールで打ち切りとなり、渡邊自身も1972年10月9日付で登記上取締役を辞任するなど、トラブルの存在をうかがわせる現象が起きている〔。
1973年に再び日本テレビを放送局とする『ドラえもん』がスタートすると、本社を新潟から東京へと移したとされるが、登記上は最後まで新潟市が本社であった〔。同作の収益は黒字で、東京テレビ動画時代からの赤字を補填できる目途がついたとされるが〔安藤、2008年、pp.64 - 65〕、その矢先に渡邊が突然失踪する〔安藤、2008年、p.61〕。本作の制作に関わった元スタッフの真佐美ジュン(下崎闊)によると、後を継いだ会長も経営に関心がなくほどなく解散〔旧ドラえもん製作者証言 (個人サイトの真佐美ジュンインタビュー)〕〔ここに言及のある「会長」は、『封印作品の憂鬱』における真佐美ジュンや吉川惣司へのインタビュー(同書p.65、75)から、代表取締役の稲庭を指すとみられる。〕、日本テレビ動画はわずか1年強で廃業、『ドラえもん』も急遽打ち切りとなり、日本テレビ動画は名実ともに消滅した。失踪した渡邊は1986年に拳銃密輸で逮捕されたがその後の消息はわかっていない〔安藤、pp.78 - 79〕。
日本テレビ動画解散後、元スタッフらは田無市西原のアパートに日本テレビ動画の労働組合を作り、失業保険を受け取りながら管財人との交渉の拠点としていた〔ドラえもん - 真佐美ジュンブログ〕。その後、元スタッフらは就職先が決まったり、アニメの仕事を廃業して田舎に帰ったりしていたので、日本テレビ動画の労働組合は1975年3月に活動を終結した〔。
日本テレビ動画が制作したアニメ作品は半年以内で終了する作品が多かった。これは視聴率が取れなかったということもあるが、東京テレビ動画時代からの体質でもあった〔半年は本放送で残り半年はリピート。〕。なお、東京テレビ動画と日本テレビ動画の2社は、いまだに著作権の帰属元がはっきりしていない。
東京スタジオがあったのは東京都中野区野方一丁目40-10五十嵐ビル5階。登記上の本社所在地は新潟県新潟市〔現在の新潟市中央区。〕花園2丁目1-16(日本テレビ動画新潟スタジオ)。2003年(平成15年)時点において、かつて同社が在所した五十嵐ビルは現存していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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