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日本社会党
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日本社会党 : ウィキペディア日本語版
日本社会党[にっぽんしゃかいとう]

日本社会党(しゃかいとう、)は、かつて存在した日本政党。略称は社会党社会SDPJ。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。
1945年に旧無産政党系の政治勢力を結集して結成され、1996年社会民主党に改名した。
== 党史 ==

=== 結党から片山内閣へ ===
日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の社会大衆党などを母体に、非共産党系の合法社会主義勢力が一同団結する形で結成された。社会大衆党は左派労働農民党、中間派の日本労農党右派社会民衆党などが合同したもので、右派・中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもっていた。日本労農党の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇制を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、社会大衆党が結党後、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。
結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。
このように労働農民党系、日本労農党系、社会大衆党系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。なお、日本労農党系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長片山哲が就任した。(後に委員長に就任)
ポツダム宣言受諾により、大日本帝国憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日社会黨 憲法改正要綱」を発表した〔社会黨 憲法改正要綱(テキスト) 本文には2月24日発表とあるが、実際は1日前。〕。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった〔なお、高野が個人的に作成した「日本共和国憲法私案要綱」では天皇制廃止と大統領制導入を盛り込んでいた。〕。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。
新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第1党となり、その結果民主党国民協同党との3党連立内閣である片山内閣が成立したが、平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。
西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭電事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。
総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。

         日本社会党中央執行委員会
中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、
          片山  哲           加藤 勘十
 片山  哲    西尾 末広   森戸 辰男   浅沼稲次郎
   〃      浅沼稲次郎   鈴木茂三郎   八百板 正
   〃      鈴木茂三郎     〃       〃
 鈴木茂三郎    浅沼稲次郎   水谷長三郎   三宅 正一


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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