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日本軍占領地の競馬[にほんぐんせんりょうちのけいば] 日本軍占領地の競馬(にほんぐんせんりょうちのけいば)では、第二次世界大戦中に日本軍が占領していた地域で行っていた競馬について説明する。太平洋戦争以前、イギリス人やアメリカ人は植民地や中国に設けた租界など世界各地に競馬場を設けていた。太平洋戦争でイギリスやアメリカと戦いその植民地や租界を占領し軍政下においた日本軍はそれを引き継いで上海、香港、マラヤ(マレーシア)、フィリピンなどで競馬を行っている。しかし、日本軍の占領地競馬は日本の軍事的敗勢で終わっている。 日本軍が軍事占領地で競馬を行った目的は、多少なりとも軍政当局が収入を得ることと、住民をギャンブルに向かわせることで日本軍占領への不満を少しでもそらせること、大量に発行された軍票によるインフレーション抑制策の一つなどであったと考えられている。日本軍は通貨として軍票を発行したが、過剰に発行され、また信用の薄い軍票のインフレを防ぐために軍票を回収する手段として強制的な献金や貯蓄奨励のほか、宝くじは占領地で広く発行され、競馬も行われたのである〔クラトスカ2005、75,243頁。〕〔柴田1996、297-298頁。〕。
==香港== 日中戦争下でも日本軍はイギリス植民地であった香港への攻撃は控えていた。しかし、1941年12月8日の太平洋戦争開始と同時に日本軍は香港への攻撃を始め同月25日ヤング香港総督は日本軍に降伏する。日本軍は香港占領後すぐにハッピーバレー競馬場の再開を図る。日本軍はイギリス人の競馬をほぼそのまま引き継ぎ旧賽馬会を日本語の競馬会に改めたほかは事務所の場所も競馬場も運営もほぼそのままに受け継いでいる。馬の牧場も占領し競走馬350頭は日本軍の管理下に置かれている。香港攻撃で多くの市内交通網は破壊されたが競馬場へ通ずる電車道(路面電車)はすぐに修復されている。占領から4か月後の1942年4月25日から日本軍占領下での春シーズン競馬が始まっている〔〔関1995、173-174頁。〕。日本占領後の最初の香港競馬には磯谷廉介総督など日本軍政各長官が出席し盛大に行われ、イギリス人から接収した競走馬は名も英国名から中国名に変更されている〔朝日新聞1942年4月26日3面〕。シーズン中は隔週でおもに土曜日に開催され、日曜日に開催されることもあった。入場料は競馬会会員席は会員は無料で会員以外が座る場合は軍票2元、一般観覧席は50銭、馬券は単勝式あるいは複勝式は1枚2元50銭で連勝式(揺彩票)は1枚50銭である。レースは土曜日は午後2時スタート、日曜なら1時スタートで1日に11レース程度行われた。冠レースやシーズンごとに重賞レースなども行われている。大レースでは場外でも馬券が発売され、1942年秋シーズンの重賞レースでは馬券は12万枚売れている。1943年からは馬券の値段は倍にされている〔〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本軍占領地の競馬」の詳細全文を読む
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