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日根野 要吉郎(ひねの ようきちろう、1853年〈嘉永5年12月〉 - 1932年〈昭和7年〉5月28日〔『官報』第1623号「彙報 - 官庁事項 - 官吏薨去」1932年5月31日〕)は、日本の宮内省官僚。宮中顧問官。 == 官歴 == * 1872年(明治5年)5月10日 - 宮内省九等出仕 * 1873年(明治6年)7月19日 - 免 出仕〔 * 1873年(明治6年)8月12日 - 陸軍省九等出仕〔 * 1878年(明治11年)7月2日 - 宮内省御用掛兼勤〔 * 1884年(明治17年)6月11日 - 宮内省八等出仕、侍従職付〔 * 1887年(明治20年)12月28日 - 依願免本官、侍従職勤務、月報六十円下賜〔 * 1896年(明治29年)6月11日 - 任 侍従、叙六等、賜四級俸〔 * 1897年(明治30年)10月8日 - 宮城県鍛冶谷沢軍馬育成所・青森県三本木軍馬育成所 並 新冠御料牧場へ差遣〔『官報』第4285号「叙任及辞令」1897年10月12日〕 * 1899年(明治32年)6月24日 - 福岡県へ差遣〔『官報』第4795号「辞令」1899年6月27日〕 * 1900年(明治33年)5月18日 - 外山御料牧場へ差遣〔『官報』第5061号「辞令」1900年5月19日〕 * 1901年(明治34年)5月17日 - 御料局京都度会両事務所管内巡回〔『官報』第5360号「辞令」1901年5月18日〕 * 1902年(明治35年)9月17日 - 鳥島・八丈島・小島・小笠原島・大島へ差遣〔『官報』第5771号「辞令」1902年9月27日〕 * 1903年(明治36年)5月14日 - 外山御料牧場・下総御料牧場へ差遣〔『官報』第5958号「叙任及辞令」1903年5月15日〕 * 1909年(明治42年)2月27日 - 小笠原島・鳥島・八丈島へ差遣〔『官報』第7700号「叙任及辞令」1909年3月1日〕 * 1910年(明治43年)12月22日 - 昇叙高等官三等、賜二級俸〔 * 1912年(明治45年)6月24日 - 賜一級俸〔 * 1913年(大正2年)5月21日 - 小笠原島・八丈島へ差遣〔『官報』第242号「叙任及辞令」1913年5月22日〕 * 1913年(大正2年)10月15日 - 京都行幸行啓供奉〔『官報』第366号「叙任及辞令」1913年10月16日〕 * 1914年(大正3年)8月2日 - 免 日光行幸行啓供奉〔『官報』第603号「叙任及辞令」1914年8月4日〕 * 1914年(大正3年)5月21日 - 昭憲皇太后霊柩供奉〔『官報』第543号「叙任及辞令」1914年5月22日〕 * 1915年(大正4年)3月13日 - 葉山行幸行啓供奉〔『官報』第783号「叙任及辞令」1915年3月15日〕 * 1917年(大正6年)7月6日 - 久邇宮邦彦王京都帝国大学へ差遣るに随行〔『官報』第1480号「叙任及辞令」1917年7月7日〕 * 1919年(大正8年)3月1日 - 徳寿宮李太王薨去に付き、午前十時に勅使として徳寿宮へ差遣。〔『官報』第1972号「宮廷録事 - 勅使並御使」1919年3月3日〕 * 宮中顧問官 * 1932年(昭和7年)5月28日 - 薨去。〔『官報』第1623号「叙任及辞令」1932年5月31日〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日根野要吉郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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