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日比谷健次郎 : ウィキペディア日本語版
日比谷健次郎

日比谷 健次郎(ひびや けんじろう、天保7年(1836年) - 明治19年1月))は、諱名は貞尚。家紋は丸に違い鷹の羽。幕末の武蔵足立の草莽の郷士。北辰一刀流の免許皆伝。明治10年(1877)に、加藤翠溪と共に、日本で最初の和独辞書『和獨對訳字林(和独対訳字林)』を出版した。
== 出自 ==
天保7 年(1836)、武蔵国足立郡の幕領(幕府直轄)淵江領
小右衛門新田(現在の東京都足立区中央本町)に、日比谷多津(日比谷大治郎五女)と養子佐吉との間に長男として生まれる。明治19年(1886)1月歿。福澤諭吉と同世代。
日比谷家は徳川家康の江戸入府以前からの郷士であり、正徳3年(1713)の「小右衛門大明神縁起」によれば、元和2年(1616)に日比谷小左衛門が渡辺小右衛門らと共に小右衛門新田の開発に当たっている〔足立区立郷土博物館、『足立風土記 – 地区編 5 梅島』、p.42、平成13年3月、足立区教 育委員会発行〕〔足立区立郷土博物館、平成23年度特別展図録『浪人たちのフロンティア -村と町の開発と浪人由緒-』、p.34、平成23年10月25日〕。
健次郎より5代前の勘十郎家尚の時代に分家し、屋号を山大(やまだい)と称した。淵江領の灌漑は享保以降、見沼代用水東縁用水路の恩恵に与っていた。宝暦8年(1758)に、この末端の用悪水堀(現在の中央本町の東端を通っていた)の浚渫を巡って隣接する村同士で出入りがあったという〔足立区立郷土博物館、『足立風土記 – 地区編 5 梅島』、p.194、平成13年3月、足立区教育委員会発行。〕。その翌年、健次郎より4代前の次郎右衛門貞教が、淵江領小右衛門新田の惣代名主となり、以後代々、幕府の行政組織の一端を担う。日比谷家代々の墓所は足立区島根の安穏寺にある〔坂詰秀一『天下長久山國土安穏寺 貞龍院殿妙経日敬大姉墓所の調査貞龍院殿妙経日敬 大姉墓所の調査』、平成20年6月30日、天下長久山國土安穏寺〕。
日比谷健次郎の家に寄食していた仙台藩の易学者宍戸頼母宍戸頼母の著書は、国立国会図書館で見られる http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%AE%8D%E6%88%B8%E9%A0%BC%E6%AF%8D〕が、明治4年(1871)に描いた日比谷家の図面(家相図)が残されている。南北約120メートル、東西約80メートル、三方が堀に囲まれ、南側の壁には矢狭間が描かれている。戦国の郷士の館の雰囲気を残している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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