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日清戦争(にっしんせんそう、中国語:(、)、)は、1894年(明治27年)7月(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。 この戦争の結果日清講和条約が締結され、台湾には台湾総督府や台湾製糖が設置され、また大日本製糖が台湾に進出した。 以下「和暦を含む西暦(中国暦)」という形式で年月日を表記する。特に断りがなければグレゴリオ暦である。 == 概要 == 1894年(明治27年、光緒20年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月(5月)朝鮮に出兵した日清両国が8月1日(7月1日)宣戦布告にいたった。日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍〔「編成・装備・訓練が統一されておらず、動員・兵站・指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった」。戸部 (1998) 、144頁。〕に対し、終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを占領した〔ただし、陸軍の実質的トップで第一軍司令官山縣有朋陸軍大将が「平壌陥落は実に意外の結果……〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外」(原田 (2007) 、81頁。注:漢字の一部を平仮名に書き換えた。)と書き記したように、海軍力で日本を上まわると考えられていた大国清との開戦は、国内に困惑と緊張をもたらした。〕。また戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで召集された。 翌年4月17日(翌年3月23日)、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は朝鮮の独立を清に認めさせた。また、清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。しかし23日(29日)、ロシア・フランス・ドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた(三国干渉)。なお、5月末(5月始め)から日本軍が割譲された台湾に上陸し、11月18日(10月2日)付けで大本営に全島平定が報告された(台湾鎮定)。台湾が軍政から再び民政に移行した翌年の1896年(明治29年)4月1日(光緒22年2月19日)、ようやく大本営が解散された。 帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。また戦後、藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる〔高橋 (1973) 、219頁。中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 下』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。〕。さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。 対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款(関税収入を担保にする等)を受け、また要衝のいくつかを租借地にされて失った。その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「冊封」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。1897年(明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日清戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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