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日産・オースチンA40サマーセット : ウィキペディア日本語版 | 日産・オースチンA40サマーセット[にっさんおーすちんえい40さまーせっと]
日産オースチンA40サマーセット は、日産自動車が1952年から1954年まで生産販売した小型乗用車。イギリスの自動車メーカーブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC) のオースチン部門が1952年から1954年まで生産した乗用車オースチンA40サマーセットをライセンス契約でノックダウン生産した。 ==概要== 1952年12月24日、BMCと日産自動車は、「『オースチンA40』の組立てと国産化に関する技術提携契約」を締結、7年間の有効期限内に、年間2,000台のA40サマーセットを組み立て、国産化する計画を結んだ。1952年の時点で日本国内に1,000台以上のオースチン車〔 大半は戦争を生き延びた1930年代のオースチンセブンであった。〕が稼動しており、知名度と信用のあるブランドだったこと、部品を日産車に流用することが認められたことなどが、契約締結の背景であった。 1953年3月には横浜市鶴見区に500坪の組立工場が完成、3月4日には木箱に入った最初のCKDキットが到着、イギリス人技術者の指導のもと、5月上旬に組み立て第一号車が完成した〔 現在も日産自動車が保存している。〕。すぐに発表・発売され、当時の価格は112万円であった。当時の純国産車のトヨペット、プリンス、オオタと比較すると乗用車としての完成度はずば抜けており、価格も10万円程度の差であったので、特にオーナードライバー層には「だるまオースチン」として好評で迎えられた〔 ただしタクシーとして当時の日本の悪路で酷使された場合に、いすゞ自動車がノックダウン生産したライバルのヒルマン・ミンクス同様、脆弱な面を露呈することがあった。〕。 1953年9月までにタイヤ、バッテリー、平面ガラスなど209点のパーツが国産化されたが、1954年9月のA50ケンブリッジへのモデルチェンジで国産化進行は一時頓挫することとなった。日産はA40の継続生産ではなく、新しいA50ケンブリッジの早期導入を決断し、早くも1954年12月にはA50ケンブリッジの組立てを開始、1955年1月に発売した。オースチンの完全国産化という目標は、A50になって3年半後の1958年10月に達成された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日産・オースチンA40サマーセット」の詳細全文を読む
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