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日産オースチンA50ケンブリッジは、日産自動車が1955年から1960年まで生産販売した小型乗用車。イギリスの自動車メーカーブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC) のオースチン部門が生産した乗用車オースチンA50ケンブリッジをライセンス生産した。 == 概要 == 日産自動車は乗用車の設計・製造技術を学ぶべく、1952年にBMCと契約を結び、1953年3月からA40サマーセットのノックダウン生産を開始し日産オースチンとして販売していた。だがそのノックダウン生産とパーツ国産化が進展する途上で、イギリス本国においてオースチンの中型セダンはサマーセットからケンブリッジにモデルチェンジされた。これを受けた日産は、オースチン国産化計画が一から出直しになる不利を押しても、当時の日本の小型車規格一杯の排気量である1500cc級車のケンブリッジを生産する方が得策と判断し、ケンブリッジへの生産切り替えを断行した。 1955年2月からA50・ケンブリッジの生産を開始し、1958年10月には完全国産化を達成した。 ダットサン110系の上級車、トヨペット・クラウン(初代)に対抗する日産のトップモデルとして、タクシーや運転手付き社用車としても使用できるよう、日産は独自の仕様変更をおこなった。1957年にはシートがベンチシートとなり、1958年にはステアリングが小径化され、ドア内張りを凹ませて6人乗りに改造、1959年はリアウインドウが拡大された。また、日本独自に4ドア・ライトバンも生産した。 オースチン組立から得た技術は、1959年発売の初代ブルーバード(310系)、1960年の初代セドリック(30系)に生かされ、日産自動車の技術水準向上に大きな役割を果たした。 また、A50のエンジンであるBMC・B型4気筒は、機構こそ平凡だが生産性・信頼性に優れた実用エンジンであった。日産はBMCとの契約でパーツを他車種に転用する許可をも得ていたことから、当時日産に招聘されていたアメリカ人自動車技師ドナルド・ストーンは、オースチンエンジンのストロークを縮小して独自の小排気量エンジンを速成する手法を提案した。このいわゆる「ストーン・エンジン」(1000ccのC型・1200ccのE型)は、1957年以降、ダットサンをはじめとする他の日産車に転用され、1960年代中期まで日産の小型車用主力エンジンとして大いに活用された。 A50の基本性能は、1950年代中期の日本で国産開発された乗用車とは比較にならないほど優れており、当時のオーナードライバーから広く支持された。後年自動車評論家となる小林彰太郎や熊倉重春などの自動車愛好家の格好の足としても知られている。中でも、ほとんど英国製部品を使用し本革張りのセパレートシートを持つ初期の1955年型は、中古車になってからも人気が高かった。 もっともその走行性能や品質はともかく、イギリスのオーナードライバー向けに設計されたボディサイズは、車体長・車幅とも当時の日本における小型車規格に比して幾分の余りが生じており、規格を限界まで利用したサイズの競合モデルであるトヨペット・クラウンに比べると、ことに後部座席のゆとりを欠いていた。ゆえに先述のような定員増加対策なども施されたが、とかくクラウンと比較され、タクシー業界からの評価は必ずしも高くなかったという。 英国ではA50は1957年1月にA55で置き換えられたが、日産では1960年4月にセドリックに引き継ぐまでA50の生産を続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日産・オースチンA50ケンブリッジ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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