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日産自動車のモータースポーツでは、日産自動車のモータースポーツ競技における実績を記述する。 日産自動車は、日本におけるモータースポーツのパイオニアの1社であり、日本だけでなく海外でも様々なレースに参加して数々の実績を積み上げ、高い技術力を示している。 == 概要 == スポーツプロトタイプカーレースに初めて参入したのは1966年の第3回日本グランプリのフェアレディSにて。ただしこのマシンは、その名のとおりフェアレディSR311に2リットル直列6気筒の純レース用エンジンを搭載した暫定版。この後ミッドシップの純粋プロトタイプが開発される予定だったが、プリンス自動車との合併でお蔵入りになった。プリンスから引き継いだR380~R382に至るR38シリーズでトヨタ・ポルシェを破り、1968年と1969年の日本グランプリを制覇した。 その後排気ガス対策を名目にスポーツカーレースからは撤退し、1970年代前半にはツーリングカー路線にスカイラインGT-Rで参戦し圧倒的な強さを誇るが、1973年の第一次オイルショックにより一時ワークス活動を休止する。ただしワークス活動休止後も、日本独自のフォーミュラカーレースであるフォーミュラ・パシフィックへのエンジン供給など、一部活動は継続していた。 1980年代に入ると販売会社側からの要望に応える形でシルエットフォーミュラを皮切りに徐々にワークス活動を再開し、1984年にそれまでの大森ワークスを母体にニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)を設立すると本格的にスポーツカー耐久レースに取り組むこととなる。そして1986年からル・マン24時間レースにも参戦するようになるが、現在まで10回の挑戦で最高位は1998年の3位(マシンはR390GT1)。2008年現在は参戦休止中である。 グループCカー時代には世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に1989年と1990年の2年間フル参戦した。また、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)3連覇(1990 - 1992年、マシンはそれぞれR90CP、R91CP、R92CP)、そしてデイトナ24時間レース総合優勝(1992年、マシンはR91CP)を成し遂げている。 現在は1993年から継続参戦している全日本GT選手権→SUPER GTへの参戦がメインとなっており、上位クラスのGT500クラスに2003年まではスカイラインGT-Rで、2004年~2007年まではフェアレディZで参戦していた。2008年からは前年にデビューした日産・GT-Rを投入する。また下位クラスのGT300クラスや、類似カテゴリーのスーパー耐久にも主にプライベーターがフェアレディZなどで参戦している。 また、かつては「ラリーの日産」と言われており、日本のメーカーの中でも最も古くからラリーに参加している。1980年代初頭にはサファリラリー4年連続優勝を成し遂げている(車両はいずれもA10系バイオレット、クラスはグループ2とグループ4)。しかし、世界ラリー選手権(WRC)のタイトルを取ったことはいまだなく、また1990年代後半からはラリーのトップカテゴリー(グループA→WRカー)から離れてしまったこともあり(下位カテゴリーであるF2クラスやグループNクラスには参戦していた)、日本で「ラリーに参戦している自動車メーカー」というイメージは三菱自動車やスバルに持って行かれてしまった。2002年からはダカール・ラリーにもワークスチームを参戦させていたが、結局パジェロの牙城を崩すことはできないまま、2005年を最後に撤退している。 余談だが、WRCに関しては撤退後に(2001年頃になってもトミ・マキネンが愚痴を言うほどの唐突な撤退劇だったことに注意)、コルシカ島でSS走行中のプジョーをプリメーラワゴンがパッシングするというCMを放映し、専門誌の読者ページがこの話題一色となった。さらにその直後に日本製4WDターボ勢(クラスはグループA/WRカー)を敵に回してFFでNAのシトロエン(クラスはF2)がツール・ド・コルスとカタルニアの両ラリーで優勝したため、結果的にインプレッサやランエボより吊るしのプリメーラワゴンが速いという、マニアには信じられない意味合いを持つものとなってしまった。その後も日産のCMは他社の自動車を追い越すCMが多く見られたため、一時批判の的になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日産自動車のモータースポーツ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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