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日立ベルフィーユ(ひたちベルフィーユ)は、東京都小平市を本拠地に活動していた、日立製作所の女子バレーボールチームである。 == 歴史 == 1964年、日立製作所武蔵工場バレーボールチームとして東京都小平市にて創部。1975年に日立バレー部に改称し、本社チームに昇格。(1990年に日立ベルフィーユと改称)。都立三鷹高校を指揮した山田重雄を監督に迎え、日本リーグでは1980年代を中心に18回、黒鷲旗全日本選手権17回、全日本総合9回、国体2回、NHK杯3回、ひろしまピースカップ4回の優勝を果たした。獲得タイトル計53回は、ユニチカ・フェニックスに次ぐ歴代第2位であり、日本女子バレー界を代表する強豪チームと称えられた。 日本リーグ6連覇、リーグ戦88連勝〔89連勝を逃した対ダイエー戦は、ダイエーのフロー・ハイマンが試合中に倒れ死亡するという忌まわしいアクシデントがあった日でもある。〕は後継のVプレミアリーグに至る歴史の中で、いまだ破られていない金字塔である。 全日本代表選手を多数輩出し、1968年メキシコ五輪で高山鈴江が銀メダル、1976年モントリオール五輪で金メダルの白井貴子、松田紀子、荒木田裕子、1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルの江上(現・丸山)由美、森田貴美枝、三屋裕子、杉山加代子、中田久美、廣紀江といった選手がチームに所属していた。 1994年、Vリーグ発足時、主力9選手がプロチーム結成を前提とした、集団で退部届けを提出する〔辞表を提出した選手は、大林素子、永富有紀、吉原知子、福田記代子、村田美穂、多治見麻子、江藤直美、藤吉麻希、島崎みゆきの9人。〕騒動が勃発。その後大林素子と吉原知子が騒動の責任を理由に退部となるが〔監督だった山田重雄が、バレーボールにもプロ化の波をもたらそうとした運動がきっかけだった。最初に自チームの選手をプロ化させようとしたが、親会社の日立はもとより、他のチームからも支持を得られず、チームメイトも生活をしていく以上、プロ化を撤退せざるを得なかった。大林素子は山田と共に運動の先頭にいた為、チーム解雇は妥当な話と言えるが、表立って活動していなかった吉原までが、「大林と吉原は山田の信奉者」という吹聴の為に日立を解雇された。〕、他の選手は日立に復帰し、Vリーグでプレーを続けた。しかし1996-1997年シーズンにV1リーグへ降格(1年でVリーグ復帰)するなど成績低迷に加え、日立製作所本社の経営改革により支援体制にも限界が出たことから、2000-2001年の第7回Vリーグシーズンを最後にチームを廃部することになった。 廃部に至った理由としては、日立本社がスポーツサポートの主力を、Jリーグの柏レイソルと、ソフトボールの日立高崎(現:ビックカメラ女子ソフトボール高崎)に集約する方針を打ち出していたことが挙げられる。翌年には同じく古豪として知られた同社の女子バスケットボールチーム「日立戸塚レパード」も休部となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日立ベルフィーユ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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