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日立航空機株式会社(ひたちこうくうき-)は、第二次世界大戦まで軍用航空機、及び航空機エンジンの製造を行っていた企業である。 初の国産航空機エンジン「神風」を開発した東京瓦斯電気工業が1939年2月に日立製作所へ経営権を譲渡し、その航空機部門を1939年5月に分離独立して出来た会社で、1941年1月から終戦までの間に航空機4機種1,783機とエンジン14機種13,571基を製造した。これは同期間中の日本の総生産数の2.6%と11.6%に相当する〔『太平洋戦争中の日立航空機株式会社』p.2〕。 航空機メーカーとはいえ、三菱、中島、川崎、川西の様な機体設計などはせず、練習機の製造と、練習機用小型エンジンの製造供給が主であった。戦時中の最盛期には5箇所に工場を持ち、計34,000人を超える従業員が在籍していた。 == 生産されていた機体 == * 三式初歩練習機、生産実績:89機(1939年5月 - 1940年10月、羽田工場) * 九三式中間練習機、生産実績:1,400機(1940年12月 - 1942年11月、1943年5月 - 1944年11月、羽田工場) * 二式初歩練習機、生産実績:61機(1943年4月 - 1943年8月、羽田工場) * 零式戦闘練習機、生産実績:279機(1944年5月 - 1945年7月、千葉工場)〔以上、1939年5月から1945年7月までの延べ生産実績1,829機は、『太平洋戦争中の日立航空機株式会社』付録A.全体生産計画、能力対実績表による。J・B・コーヘン『戦時戦後の日本経済』上巻p.318は、1941年から1945年の生産数を1,783機としており、『太平洋戦争中の日立航空機株式会社』p.2の数字と一致し、付録Aの同時期の生産数1,737機と異なっている。『戦時戦後の日本経済』と付録Aの年別生産数を比較すると、1941年から1944年までは一致しているが、1945年の数字に差異が生じており、『戦時戦後の日本経済』は201機に対し、付録Aは155機となっている。〕 零式戦闘機や銀河双発爆撃機の製造計画が進められていたが、空襲や疎開の影響で生産能力が落ち、終戦までに練習機以外が製造されることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日立航空機」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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